世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

そのジェンガを崩さないように

ジェンガをほぐしてゆく。

崩さないようにジェンガをほぐしてゆく。

どこを抜けばジェンガは倒れずに立っていられるのか。ひとつの腐食したジェンガのかけら。かけら。ピース。それを抜いても、そのジェンガは立っていられますか。

どれだけ抜いてもジェンガジェンガである、いや、そういうわけではない。どこかで倒れるときがくる。崩れるときがある。信じられない程簡単に。崩れたジェンガはもはやジェンガではない。かけらたちの集まり。ただの塊。そうしたらそのゲームは失敗。終わり。

ひとつかけらを外したところで、倒れるときは倒れるもので。崩れるときは崩れるもので。けれどもただ立ってさえいられれば、どこまで抜いてしまってもかまわない。かまわないの。そういうルールでいまは進んでいる。ジェンガはそういうものというルールでわたしたちはかけらを外していく。大胆に、大胆に。倒れることさえしなければ、それはジェンガだと言える。そういうふうに、外していく、抜いていく、限りなく倒れないぎりぎりのところを攻める。それが美徳であると。この世界での美徳であると。そういうふうにできているみたいだ。この世界では。

 

ひとつの腐食したジェンガのかけら。

それを抜くとその腐食したジェンガのひとつ上のジェンガに腐食が伝染している。

それを抜いてもそのジェンガは立っていられますか。

 

抜けるのならばどこまでも。腐食が伝染しないように広がらないように。綺麗なかけらでさえも。立っていることに関係のないかけらならば抜いてもかまわない。腐食を防げ、防げ、ふせぐんだ。広がる、ひろがる、くずれかけるジェンガ。ただの塊にならないように。わたしたちは抜く、抜く、ぬいてゆく。

 

そのジェンガは世界を動かしている核だ。

そのジェンガは、脳そのものだ。

 

『麻痺さえ出なければ』

『失語さえ出なければ』

 

そういってまた腐食したかけらを外していく。ゆけるところまで。たった1本の柱で支えられているおおきな神殿。揺れる揺れるゆれる。けれどまだ立っている。まだ立っていられる。そうであるならば。そうあなたが叫ぶのならば。限界まで外して差し上げましょうそのジェンガ

 

(脳腫瘍に立ち向かうということ)

 

 

寂しい病のおばあちゃんと、わたし

病棟の最上階に、長いこと入院しているおばあちゃんがいる。

青山さん(仮名)齢80歳、旦那さんは代々弁護士さんの家系だったらしく、ハイソな生活をしてきたおばあちゃんだ。ずっと旦那さんとは仲が良かったとみえて、お金にも愛情にも不自由ない人生を歩んできたようだ。愛に恵まれて生きてきたことが、表情にあらわれている。そうして旦那さんも自分も年を取り、老後は2人で仲良く綺麗な介護付きの施設に入所しようとしていたようだが、その矢先に旦那さんに先立たれてしまったらしい。青山おばあちゃんは、いま、愛情に飢えた毎日を送っている。もともと聡明な方で、本人はぼけてしまったと言っているけれどそんなことは無く、今でもしっかりされている。けれど身体にはガタが来てしまっているようで、足がむくんだりとか、膝や腰が痛かったりとかで、毎日病室とリハビリ室をいったりきたりの生活になってしまっている。実際のところ頑張ればもっと活動的な生活ができそうだが、どうやら旦那さんが亡くなってしまって、心がからっぽになってしまったようなのだ、もう、何もしたくない、早く旦那さんのところに行きたいと悲観的になってしまっている。貯蓄は十分にあるので病院にいる必要は必ずしもないのだけれど、『自分に合うお手伝いさんがみつからない』『つまらない老人ホームには入りたくない』と言って、かれこれ半年以上、この病院に居着いてしまっている。とはいっても病院でもスタッフがいつでも相手を出来るわけではないので、わたしは上司に『暇なときは話し相手になってあげてくれ』と言われ、時間がある時には病室へ行き、青山おばあちゃんの話し相手をしている。

青山おばあちゃんは、カルテの看護師さんの記録を見ると、『S(患者さんの言葉の意味):もう行っちゃうの。もう少しいてよ。さみしい。』と駄々をこねてしまっているようだ、本人も『私は寂しい病なのよ』と自分で言っている。寂しい病は、薬では治らない。わたしが30分行ったところで、『帰っちゃうときが寂しいから、もう来なくていい』と言い、いつも病室から出るときにはなんとも後ろ髪を引かれるような思いをしている。今日の青山おばあちゃんは『つまんない相撲ももう終わっちゃって、なにも見るものがなくなっちゃったわ』と言っていてわたしは少し笑った。『つまんない相撲でも、こうしてみている側はなんとなく動きがあって楽しいものね』。わたしは『相撲も結構面白いですよ。わたしは行司さんの動きを見ているのが好きです。』と言ったら、渋い顔をしていた。『でも日本人が弱くてどうしょうもないわね。』最近は下痢をしてしまったとかで、ご飯がおかゆになってしまったらしい。『おかゆになったとたんに量が倍くらいになって。もうお椀にこんなに盛られて運ばれてくるの。まずいのなんの。晩御飯が怖い。』といってまた悲痛な顔をしていた。『何か食べたいものがあれば買ってきますよ』とわたしが言うと、『せっかく用意してくれているものだから食べる。』と言っていた。青山おばあちゃんは、駄々っ子なのだ。わたしは、わがままなお嬢様の相手をしている執事の気分になる。でも青山おばあちゃんは優しい、本当のおばあちゃんと話しているようで、わたしが何を言っても肯定してくれる、そういうおばあちゃん独特のなにもかもを受け入れてくれる包容力がある。実際のところわたしは青山おばあちゃんに対してなんの診察も治療もしておらず(主治医は上司であり管理は上司がしている、青山おばあちゃんはVIPなのだ)、ただ話すためだけに病室へ行っている。青山おばあちゃんは、正直なところ、病院で治療が必要な病気を持っている訳ではない。けれどおそらく、病院では治療できない病気を持っている。そう、寂しい病だ。寂しい病は、どうにもよくならない。青山おばあちゃんの寂しい病を根本的に治療するのは不可能だとわたしは思っている。

じゃあ、わたしは何のために青山おばあちゃんのところへ行くのか?

そこに合理的な理由はないのかもしれない。青山おばあちゃんは少しの間だけれど話し相手が出来て嬉しく思ってくれてはいるかもしれない。そしてわたしの方はわたしの方で、自分のために行っているようにも思う、青山おばあちゃんのところへ行くときのわたしは、医者ではないのだ。鈴木あかめとして行っている。なので深いことは考えない。あまり深く考えると、こういうことは悲しい結論にいきつくことが解っている。

 

なんとも言えない切ない気持ちになったので、本屋さんで大量に本を買ってしまった。きょうは医学とは関係のない本を買うぞ、と決めていたのに、つい手に取ってしまった本が医学寄りなものばかりでつらい。

 

f:id:kireinasekai:20150929233958j:plain

 

左上から、『蝶々の纏足・風葬の教室/山田詠美』『何もかも憂鬱な夜に/中村文則』『99.9%が誤用の抗生物質/岩田健太郎』『すぐに役立つ脳神経外科救急ハンドブック/日本脳神経外科救急学会』『ゲスな女が、愛される。/心屋仁之助』『まどか26歳、研修医やってます!/水谷緑』『サブリミナル・マインド/下條信輔』『素数はなぜ人を惹きつけるのか/竹内薫』。

山田詠美さんの本は、id:letofoさんのブログで紹介されていて惹かれたので買ってみることにした。まどか26歳、研修医やってます!は、主人公の研修医の女の子が、上級医の厳しい外科医に『こんのド下手クソがー!雑!死ねっ!医者なんかやめちまえ!』と手術中のミスで怒鳴られているシーンをうっかり立ち読み中に見つけてしまい、思わず涙があふれそうになったのでやむを得ず買ってしまった、この研修医なんというわたし。けれどまどかちゃん(主人公)は『ちくしょーあそこまで言うことないじゃんよーーっ』とひとりやけ酒を飲んでおり、対して自信をなくしてしょんぼりしていたわたしに少し勇気を与えてくれた、見習うべきお手本は、本の中にいた。そうか、ちくしょー、って思って良かったんだ。

 

f:id:kireinasekai:20150930014506j:plain

 

件のシーン。これ実際にあるから怖い。非常にリアルなエピソードと、綺麗ごとじゃない包み隠さない女医の心情が描かれていて感動。でもこういう厳しい先生は得てして信条を持って仕事に命をかけており、患者さんからの信頼はばつぐんに厚い、くやしいけれど憧れなのだ。

どぎつい色のゼリービーンズ

おもむろに隣の席をみると、同期の机の上に、ザ・アメリカンなパッケージのお菓子が置いてあって、パッケージのおもてには、STAR WARSの絵が描かれていた。中にはポイフルっていう昔あった(今もあるのかな??)ゼリービーンズによく似た、カラフルの色のゼリービーンズが入っていて、けれどその色は日本にいる限り食べ物として見ることのないようなどぎつい色をしていた。隣の席の同期が『いっこ食べる~~??』と言ってきたのでわたしは『いらない』と言ったのに、いいじゃん食べようよ僕も食べるから、といって白いゼリービーンズを無理矢理わたしに渡してきた。わたしのなかの日本人の遺伝子が、食べ物の色ではないと頭の中で警鐘を鳴らしていた。同期も同じ色の白いゼリービーンズを手にしていて、同時に口に放り込んだのだけれど、10秒くらいして同期が『おえっ』と言いながら口からゼリービーンズを吐き出した。わたしが食べたのは甘くてカラメルのような味のするおいしいゼリービーンズだった。パッケージの裏をみると、わたしが食べたのはどうやら『バターポップコーン味』で、同期が食べたのは『腐った卵味』だった。同期はおえって言いながら後輩の男の子に『ゼリービーンズあげる~』と被害者を増やす活動をしており、後輩は『おえっなにこれめちゃくちゃまずいっすわ』と言いながら5つくらい連続でゼリービーンズを食べており、めちゃくちゃまずそうなのに先輩の言われるがままに楽しそうにゼリービーンズを食べていて、『吐しゃ物の味』とかもあったのに、笑顔で食べる姿を見てわたしはとても感動した。彼は男子校出身で、男子校出身の男の子ってそういう男気があるとたまに思う。

 

 

きりたんぽのこと

最近とある友人とご飯を食べる機会があり、そのお店の予約はわたしがとることになった。どんなお店がいいか友人に聞いたところ、『炭水化物をプッシュしていないお店』との返答であった。どうやら筋力トレーニングにはまっているらしく、肉体維持のため夕食には炭水化物を抜いているらしい。わたし自身は筋トレには全然詳しくないけれど、どうやら良い筋肉のために炭水化物はよくないらしかった。

わたしは焼き鳥屋と京料理屋を提示し、友人に選択してもらうことにした。友人は焼き鳥屋がいいと言った。たぶん、ささみとか、そういった脂身の少ないお肉を欲しているんだろうなと推測された。

いざ友人と焼き鳥屋に行き、メニューを広げ、何を頼もうかと聞いたところ、『この店、きりたんぽがあるやん。きりたんぽは外せないな。』との返事が返ってきた。ん?と思った、少し考えて、きりたんぽのことを思い出してみたけれど、わたしの記憶が正しければ、きりたんぽは炭水化物のはずだった。確か、お米かもち米みたいなものを竹の串に巻き付けて焼いた、五平餅のような食べ物だったと記憶していた。

実際のところきりたんぽはそれほどわたしの生活になじみがなく、自信もなかったし、『きりたんぽは炭水化物なんじゃないか』と言うことができなかった。結局、流されるままきりたんぽを2人前頼んだ。そうしてテーブルにやってきたのは、やはりわたしの記憶の中のきりたんぽであり、炭水化物だった。友人は特に驚きもせず、おそらく友人も思っていた通りの注文が来たという顔で、『きりたんぽやっぱり美味しいな』といってほおばっていた。初めて食べたきりたんぽは、確かにおいしかった。

食事が終わって友人と別れるまで、『きりたんぽは炭水化物だったのではあるまいか』と言い出すことは、最後まで、できずに終わった。友人は満足げな顔で帰っていった。わたしは友人と別れてからというもの、きりたんぽのことが頭から離れず、ずっと考えていて、ずっとそのことを考えていて、もしかしてと辿り着いた結論は、友人はきりたんぽを練り物の類の食べ物だと勘違いしているのではないか、という事だった。確かに形的に、きりたんぽは、ちくわに似ているといわれれば似ている。食べればきりたんぽはどう考えてもお米の味がしたけれど、友人が練り物だと思い込んでいたとすれば、あるいは友人には魚の味がしていたのかもしれない。

友人は少し間が抜けているひとだった。

そして、言えなかったけれど、わたしは、あの日イタリアンが食べたかったのだ。

 

あの夜、友人はきりたんぽを堪能しながら、イタリアンを酷評していた。友人はビールを飲んでいたので、少し顔は火照っていた。イタリアンのメニューはなんや、パスタにピザにパンに、炭水化物に、チーズみたいな脂肪分、どう考えてもからだに悪いやないか、対して日本料理はおかずが多いから、炭水化物をとらんくても腹いっぱいになる、やっぱり日本料理さいこうやな、うんぬん、かんぬん、わたしはそうやねと適当に相槌をうちながらほんとうはイタリアンが食べたかったことを考えていた、けれど炭水化物をとりたくないという友人の希望を叶えるためにはイタリアンは適さないと泣く泣く諦めたことを、きりたんぽをかじりながら考えていた。

 

友人は少し天然ボケだったけれど、わたしはこれを機にきりたんぽのことが好きになったのでまあよかったかなと今は思っている。そして友人の、美味しそうにきりたんぽを食べている姿を思うと、次に会ったときにも、たぶんわたしは、きりたんぽは炭水化物だよということは言いだせないと思う。

本当は怖い!?当直の実態

夜の病院は恐ろしい。

恐ろしいと言っても、お化けだとか幽霊だとかそういった類のお話ではない。恐ろしいのはいつでも生身の人間だ。病院においてすでに死んでしまった人間(あるいはそれが化けて出たものだとしても)はそう恐ろしいものではなく、本当に恐ろしいには今まさに死のうとしている人間だ。なので『病院はお化けが出そうで怖い』というのはある意味ジョークにすら感じてしまう。生きるか死ぬか、その間でさまよっている瞬間の人間は恐ろしい。血圧が200と40の間を行ったり来たりしている。なんということ。心臓が動いていない。脈拍が30を切った。生きているから怖いのだ。なんとか命をつながなきゃ。・・そんなことを言っている私がある意味怖いのかもしれない。全然可愛らしくない。のである。

それはさておき、夜の病院に言った経験はあるだろうか?夜の病院、あるいは日中の正規の診療時間が終了したあとの病院、つまり救急外来のことである。たいてい救急外来、あるいは救急車できた患者の対応をしているのは若手の医者である。それも、若手も若手、ひよっこ研修医が診療にあたっている可能性はかなり高い。専門分野をまだ持たない研修医にとって、救急外来は重要な仕事である。彼らは正規の診療時間が終わってからが本番なのである。研修医は救急対応の最前線にだされて歩兵のように働いている。たいした武器も持たずほとんどの場合は体当たりで診療しているもとの思われる、わたしの場合もそうだった。ポケットに赤本をつっこみ、患者さんを『ちょっと待ってください』といって診察室から出して、必死で該当ページを探す。そんな経験は9割くらいの医者はしているのではないだろうか。大事なのは『いっぱいいっぱいであることを悟られない顔』をすることである。見た目から若い研修医は、そもそも患者さんから不信感を持たれやすい。そんな中で『えーっとえーっと』なんて言おうものなら『もっと上の医者を呼んで来い!』と怒鳴られてしまう。もっと上の医者はもっと重症な患者の対応で手が空いていない・・そんな中で大したことのない用事で呼び出したらそちらからも怒られてしまう、なので、水面下でばたついている白鳥のように不安な気持ちを必死で隠し、余裕で泳いでいる様子をみせるのだ。ぼくちゃんとひとりで泳げるもん。と。

そんな初期研修2年間が終わったピカピカの3年目であるわたしを待っていたのは、ひよっこたちの面倒をみて、彼らの責任を負うことであった。それなりの病床数をもつ小中規模の当病院であるが、当直体制は、3~10年目くらいの若手医師1人+研修医1人の2人体制なのである。つまり、わたしと、研修医ひとり、たった2人で救急車と、救急外来をまわしている。

診断がつき入院治療が必要な場合、該当する科の待機の医者を呼べば、まあたいていすぐに来てくれる。ただ、診断をつけるまでは、ふたりぼっちの孤独の救急なのだ。もちろん常に2人セットで行動しているわけではなく、研修医がひとりで外来をすることもある。わたしが当直をしているときには、研修医はいちおう独断では患者を帰らさせないようにしているので、一通りカルテや検査結果を見てGOサインを出すことにしている。けれど、それができていないことも往々にしてあるだろう、そういう話も聞く、それがいまの救急の実態なのだ。

とは言っても、わたしだって3年目、そんなに経験豊富なわけではない。泣きそうになる瞬間がいくらだってあり、けれどそんな顔を研修医、看護士さん、まして患者さんにみせられるわけもなく、歯を食いしばって笑顔で診療している。慣れないエコー片手に心臓の動きをみて、CT画像を何度も何度も行ったり来たりさせながら、free airはないかどうか目を皿のようにして探す、起きている時間が24時間を超えるともはや、何のために救急をしているか分からなくなる時がある、患者さんのため、それとも自分のためなのか・・

けれど、どんな泣き言を言っても、自分が止まってしまっては、救急の業務すべてがストップしてしまう。泣いても目の前の患者さんの診断はつかない。泣いても患者さんの命は救われないのだ。

診療時間外に来る患者さんは、それなりの理由があるのだ。次の日まで待てない、何らかの理由が。そう、そう信じている。そう信じて診療をしている。

 

明日は当直だ。明日、この地区のみんなの健康を祈って。そして、どうか・・どうか、飲みすぎないでください!!アルコール中毒は、けっこう、大変なんです!!特に、女の子・・吐しゃ物まみれでは、可愛らしい洋服も、メイクも、台無しだよ!!成人しているのだから、みんな自分のキャパシティーを把握して、節度ある飲み会をしてください!!明日、飲み会の人は、となりで飲みすぎていないか・・しんどそうにしていないか・・みてあげてください!!吐き始めたら、身体を横にして、吐しゃ物で窒息しないようにしてあげてください!!あと、無事居酒屋をでられても、家までの道のりで側溝に落ちてしまう人が多々います!!転ばないように!!あと、駅のホームにも落ちないように!!まあ、けど、どうしても・・どうしても命が心配ならどうぞ、病院へ。遠慮せず来てください、わたしが笑顔で対応しますから(*δωδ*)」

ソラカラちゃんとシタカラスカイツリー☆

大学時代の同級生Fが、学会で東京に来てるってことで召喚されてきました(☼ Д ☼)

 昼前に新幹線で東京へ。さすがのシルバーウイーク、家族連れで混みあってました。やむをえずグリーン車・・おみやげの予算をまわすことにします。にゃんぱす(ू˃̣̣̣̣̣̣︿˂̣̣̣̣̣̣ ू)スカイツリーに行きたかったけど築地の雰囲気を久しぶりに味わいたかったのでまずはお昼ご飯を食べに築地へいきました。別にどこか行きたいお店があるわけでもなかったのでふらふら歩いてすぐに入れそうなお店で海鮮丼を食べます( ⓛ ω ⓛ *)味はいたってふつう!でも雰囲気でおいしくかんじる!!

テリー伊藤さんの実家の卵焼き屋さん『丸武』と、その近くにあったもう一つの卵焼き屋さん『山長』でだし巻き卵を食べ比べます。

f:id:kireinasekai:20150920230354j:plain

これは山長さんの『甘くない方の卵焼き』。しょっぱくて大根おろしがあう味。焼きたてなのであつあつだし汁じゅわ~~!!テリー伊藤さんの卵焼きは甘めの味付けだったので、純粋に味比べはできず。山長さんは甘いのと、甘くないのと2種類の味付けがあったから、甘いのにすればよかったな。どっちもおいしくて好みの問題レベルの味の違いだけど、きょうのわたしの気分には甘めのテリー伊藤さんの卵焼きがあってた。

 

そして押上にいってスカイツリーを下から眺める。

f:id:kireinasekai:20150920223245j:plain

展望台へはとてもじゃないけど混んでて上がれず。スカイツリーは下から眺めるものです・*・:≡( ε:)

f:id:kireinasekai:20150920223638j:plain

 

大人気ソラカラちゃん(๑˃́ꇴ˂̀๑)ハロウィンの格好してるかわいい~~♡子供たちに囲まれてます。恥ずかしくてタッチできず。黄色くて星っぽい頭。頭の黄色は均一じゃなくて、星のとげとげの先は焦げた黄色になっているところがチャームポイントです。

時間があるからソラマチにあった『すみだ水族館』へいきました。入るのに40分待ちっていう安定の東京の混み具合。

f:id:kireinasekai:20150920223303j:plain

 

くらげのライトアップやってました。くらげと蜷川実花さんとのコラボレーションみたいです。くらげ、海月、水母。この頭にあるわっかは何なんだろう?電池かな??

すみだ水族館は、これといって珍しい生き物がいるわけではないけれど、屋内でしかもすごく近い距離でペンギンをみることができたり、ただの金魚が東京らしいおしゃれ展示方法によってなんかすごい生き物をみている気分になったりして、なかなかハイソな水族館でした。入場料2050えん、年間パスポート4100えん也、2回以上行けば元が取れます。

f:id:kireinasekai:20150920223921j:plain

 

ソラカラちゃん、うちに来ました。

長い髪の毛は何を隠す

髪の毛を伸ばし始めたのにはいちおうどうでもいい理由があって、それは働き始めて運動習慣がなくなって少し丸くなってしまったこの顔の輪郭を隠すためで、そういうわけでかれこれ2年半くらい、わたしは髪の毛を伸ばしていることになる。

 

ほんとうに、どうでもいい理由だった、伸ばし始めたきっかけは。

 

小さいころからロングヘアよりショートカットの方が好きだった。スカートよりズボンが好きな、おてんばな小学生だった。休み時間は男の子にまじってドッジボールをするような子だった。髪の毛は、いつでもショートカットだった。中学生、高校生の頃は、特に理由もなかったが、セミロングくらいをうろうろしていたように思う。それほど髪型にはこだわりがなかった。大学生になってからは、いつもショートカットだった。嫌なことがあって気持ちが落ちると、髪の毛を切って解消するようなことをしていた。好きだった漫画『ご近所物語』の実果子がそうしていたのに憧れていた。漫画の中で実果子がそうしていたように、金髪ベリーショートにしてみたりしていた。そういうわけで、髪の毛を切ることになんら抵抗はなかった。

 

2年半前から伸ばしている髪の毛は、いま、胸が隠れるくらいまで伸びている。

けれど正確に言うならば、伸ばしているのではなく、切れないでいるのだ。この長くまで伸びた髪の毛を。それは、未だに顔が丸くその輪郭を隠したいからとか、そういう理由ではなく、もっと、わたしのなかではしょうもない理由、しょうもない理由で髪の毛を伸ばしている、伸ばさざるを得ないと思っている、ほんとうは切りたいのに、伸ばさないといけないと半ば強制的に思い込んでいる、そうしてずっと伸ばしている。

髪の毛は短い方が洗うのも楽だし、乾かすのも楽だし、手入れだって楽、この限りある大切な時間を有意義に使うためにはショートカットの方が楽に決まっている。もともとそれほど髪の毛には無頓着なので、こんな髪型をしたいだとか、アレンジが好きだとか、そういうことは思っていないので、わたしにとっては本当に長い髪の毛にはメリットがないのだ。ただ朝の大事な時間を、髪の毛をセットするために割かないといけなくて、実際かなりのストレスだ。

 

女医さん、特に外科系の女医さんはショートカットの人が多い。

たぶんそれは、時間短縮とかそういう目的もあると思うけれど、元来スポーティーというか、男っぽい、サバサバしたひとが外科に行きがちのため、ショートカットのひとが多いという理由もあると思う。どちらにせよ、わたしもそういうなかのひとりだ。

 

昔、アンデルセン童話かなにかで、愛し合った貧乏なカップルがお互いへの贈り物を買うために、自分の大切なものを売るという話があった。女の子は長くのばしていた自慢の髪の毛を売って、相手が持っていた懐中時計につけるためのチェーンを買った。しかし相手の男の子は、自分の懐中時計を売って、女の子の自慢の髪の毛を梳く櫛を買ってしまった。お互いがお互いへの贈り物のために自分の大切なものを売ってしまい、それぞれの贈り物は役に立たないものになってしまった。けれど、大事なのは相手のために自分の大切なものさえ犠牲にするという気持ちだよね、といって、そんな心温まるストーリで終わる物語だった。

そう、長い髪の毛だ。わたしが小さいころこの童話を読んだときに、そんなに髪の毛って大切なものなのかなあ、という感想をもったのを覚えている。その話の中で女の子は髪の毛を切る時に涙を流していた、うつむいて涙を流しながら、怖そうな魔女みたいなおばあさんにはさみを入れられている、そんな挿絵が描かれていた。たぶん大切に伸ばしていたのであろう綺麗な髪の毛にはさみをいれることが、まるで命でも失うかのような、そんな描かれ方だった。わたしはそれをみて、子供ながらに、現代には合わない考え方だな、と思った。ずっと昔には、髪の毛が高く売れる時代があって、長く綺麗な髪の毛は女の人の象徴で、けれどいまの女の人はショートカットにして、強くたくましく社会で働いている、小さかったわたしは、ニュースやドラマでみるそんな女性像に憧れていて、それが『いま』の社会では普通のことなのだと思っていた。

 

 

別に、『いま』だって、それは普通のことなのだけれど、別に『女の人は髪の毛を伸ばさないといけない』なんてそんな規律があるわけではないのだけれど、『長く綺麗な髪の毛が女の象徴』だなんてセクハラか時代遅れかがいいところなのに、世間ではなく自分が、自分で自分をがんじがらめにする考えによって、動けなくなってしまっている。

胸を隠すくらいまで伸びたこの髪の毛を、どうにも持て余している。

いつからこんなに、『女であること』を意識するようになってしまったのだろう。女らしくしないと、という考えが、小さな行動ひとつとっても常に頭の中で働いている。それは働き始めるようになってからだと思う。そうでもしないと、自分が男にでもなってしまいそうなのだ、たぶん周りはわたしに女らしくあることを求めている、それは同期でも後輩でも上司でも、そして家族ですら、そういう雰囲気が伝わってくる、女であれと、いついかなる時でも、例え緊急手術で夜中に呼ばれたとしても女であれと、けれど一番はわたしなのだ、すごく、女でなくなってしまうことに怯えている。

 

髪の毛を切ってしまえば楽だ。

別に、髪の毛を切ったところで、わたしの性別が女であることに変わりはないし、ショートカットでも可愛らしくしている女の人だっていくらでもいる。

けれどいまの自分の中で、この長い髪の毛は、わたしが女であることの象徴なのだ。

例えシャンプーに時間がかかっても、トリートメントにお金がかかっても、セットに時間がかかっても、いまはこの長い髪の毛がわたしにとっては必要なのだ。丸くなった輪郭を隠すために伸ばした髪の毛は、いま、もっと多くの事柄を隠してくれているように思う、誰かに悟られないようにそっと隠している多くの事柄を。しょうもないと思う、非常にくだらないし、わたし以外の人間にとってはどうでもいいことだ。こんな考え方、嫌いだったはずだ。人って変わっていくんだな、と思うと同時に、変わっていく自分に自分がついていけないでいる、ほんとうは、髪の毛を切りたいのだ。

いつか、もう少しだけ時間が経てば、髪の毛を切れる時期が来るかもしれない。たぶんその時には、なにか大きな出来事が自分のなかで起きた時だと思う。そうでもないと、この、忌まわしい、長い髪の毛を切る踏ん切りはつかない。