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世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

進みなさいと、誰かが言う声が聴こえる

他愛もないこと おやすみのこと

雨が降り出し、傘を持っていないと思われるスーツ姿のサラリーマンが足早にかけてゆく。同じように、傘を持っていないと思われる若い女の子2人が、うつむきながら、けれどそれほど急ぐようにもみえず、通り過ぎてゆく。傘を持っている人たちは次々とそれを天に向かって広げ、うっすらと暗くなり始めた街に色とりどりの花を咲かし始めた。

 

今朝の天気予報は、見てくるのを忘れた。

しかし傘を持っていないひとが一定数いることから察するに、降水確率はそれほど高くはなかったのだろう。

 

よい本と巡り合えた時、またそれを読んでいるとき、雨が降ればいいのにと思う。

目の前で、中高年といったところの主婦らしき3人組が、折りたたみ傘をたたみながら笑顔で喫茶店のなかへ入っていった。

 

ひとりが好きなのではない。けれどひとりでいることは、無性に安心感を与えてくれる。たったひとりの部屋にいるときではなく、大勢のひとがいる街中だったり、カフェにいるときの『ひとり』は、大きなゆりかごのなかにいて、もう覚えていないけれどかつて経験したであろう赤ん坊の頃手にしていた絶対的な安心感に包まれている、そういう気持ちになる。とてつもなく大きな何かの一部であるということを実感できる。そういった認識がきちんとできるときの自分は、脳が正常に機能しているのだと思う。

ひとりが好きな訳ではないけれど、ひとはひとりでしか生きていけない事を知っている。周りの支えや社会から与えられる保障や友人といった類の存在がなくてはいまのわたしは生きてゆくことはできないが、結局ひとはひとりだ。自分を救うのは自分しかいない。わたしを取り巻く有機的な、あるいは無機的な存在たちは、それを手助けしてくれるが、最終的な指揮は自分で執るしかない。

 

音楽が延々と流れている。イヤホンから1曲の歌がリピートされていて、両耳からわたしの頭の中に流れ込んで溶けてゆく。

 

さっきまでの滝のような雨は夕立だったようだ、雨は街路樹を大きく揺らすだけの風になっていて、傘をさしているひとはもういない。

 

ひとはひとりだけれど、そのなかに他の誰かが溶け込んでいる、という発想はとても自分を強くする。自分がいる限りそのひとは永遠であり、一緒に歩み続けることができる。

『いまあなたは、そこを通りなさいという道を試されている。自分の中で受け入れられないことも飲み込みなさいと言われている。これを通過することによってあなたは成長してゆく。いろんな負を目の当たりにすることで、はじめて生きることの尊さがわかる。』

 

It's a lonely road.

But I'm not alone.

 

宇多田ヒカルの『道』が、ずっとイヤホンから聞こえてくる。その道を進みなさいと言ってくれているような気がする。

親知らずを抜いた

健康のこと

はじめて親知らずを抜いたのは、たぶん、4年前のことだったと思う。右上に生えた親知らずが虫歯になりかかっていた。その時には最初にかかった開業医の先生がそのまま抜いてくれて、しかもほとんど痛みもなかったのを覚えている。親知らずを抜くことになったという話をしたとき、たいていの友人は『麻酔の注射がすごく痛い』『次の日に顔の形が変わる』『1週間うどんしか食べられなかったから痩せた』と親知らずを抜いたあとの悲惨なエピソードについて語り、わたしを脅した。なので、かなり覚悟を持って臨んだのだが、歯茎に打つ局所注射も、ペンチのようなもので歯を抜くときも全く痛くなかったし、その後腫れることもなかった。

 

そういうこともあり、今回左下の親知らずが虫歯になりかかったときにも、はっきりいってかなりなめていた。今回は以前とは別の歯科にかかり、抜歯するにあたり一度歯全体のレントゲン写真を撮ったのだが、その時先生に『左上の親知らずも虫歯になりかかっていますね。横の歯を圧迫しているようですし。こちらも抜いたほうがいいかもしれませんねえ。』と提案された。けれど0の痛みが2倍になっても0なのだし、1本抜くのも2本抜くのも大して変わりはなく、『あ、そうですか』くらいで、特別何か思うこともなかった。

 

後から知ったことだが、どうやら、下側の親知らずの抜歯というのは、上側とは比べ物にならない痛みを生じるらしい。

 

2日前、近くの大病院にて、かなり大袈裟な感じで親知らずの抜歯手術を受けてきた。親知らずは、2本同時に抜いた。情けないことに、まず、手術中に(といっても2本抜くのに10分くらいで終わったのだけれど)局所麻酔の追加注射をお願いした。そしてゴリゴリと抜かれている最中、顔にガーゼをかけられていたのだが、わたしはひっそりと泣いていた。痛いのだ。下側の親知らずは、上側を抜くときと天と地ほどの痛みの差があった。なんだか、骨から直接歯をはがされてる気分で、冷や汗がどっとあふれてきていた。ちなみに、その時のわたしの収縮期血圧は100を切っており、緊張のため脈拍は110を超えていた。完全にショックバイタルだ。

涙をこぼし、ガーゼを噛みながら、わたしは近くの調剤薬局に鎮痛剤と抗菌薬をもらいにいった。大病院だったので会計処理に時間がかかり、その間に麻酔がきれかかっていた。こんなことなら、家からロキソニンを持ってくるんだった。わたしはなめていたのだ。下側の抜歯はこんなにも痛いなんて。

調剤薬局では半泣き状態だったし、頬が腫れ始めていて、さらに口半分が麻酔のため麻痺しており、うまくしゃべることが出来なかった。ほんとうに情けない28歳だった。優しい薬剤師さんが『いま、ここでお薬飲みますか?』といって、紙コップに水を入れて持ってきてくれた。急いで鎮痛薬を飲もうと口に水を含んだら、噴水のように左側の口から水が『ぴゅー』と飛び出した。うわっと思い慌ててタオルで服にこぼれた水を拭いた。そうか、いま自分は左側顔面麻痺状態なのだ。いや、局所的すぎるので、視床梗塞とか、そういったときの症状に近い。『片側の口唇から水がこぼれる』というのは、こういう状態のことを言うのだ。ひどいありさまだ。上側の親知らずの抜歯の時は、こんなことはなかったのに。

 

初日は1日3回のロキソニンに、頓服でもらったハイペンを、すがるような気持ちで飲んだ。そして翌朝は痛くて目が覚めるくらいの痛みは続いていたが、もう口の端っこから水がぴゅーとこぼれることはなくなった。ハイペンも無しで耐えれるようになった。顔は、思ったよりは腫れなかった。もともと髪の毛で頬を隠しているため、あまり目立たないのかもしれない。友人に言われてセルフィ―で毎日自分の顔写真を保存しているが、それほど変化はないように見える。

まだ左側の歯でものを噛むのはためらわれるので、柔らかいアイスとか食べていて、あまりバランスのよくない食生活をしている。きょうはスタバで、ほうれん草とベーコンのキッシュを食べた。キッシュは柔らかく、歯に優しい。

そういえば、親知らずは上下左右4本に生えるものだが、4本すべて存在しているひとはそれほど多くないらしい。わたしはもともと3本しか存在しなかったうえに、すべてを抜いてしまったので、もうこの教訓を生かすことはなくなってしまった。けれど、もし誰かが親知らずを抜くということになったとき、それが下側だったら、きっとわたしもその痛みについて脅すような人間になるのだと思う。

 

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スタバ、ティバーナの話、ブラべミルクの話

旅行・食べ物関係のこと

きょう、またいつものようにスタバに来たら、メニュー表がマイナーチェンジされていた。ブラックボードにカラフルなチョークで『TEAVANA』(ティバーナと読むらしい)と大きく書かれており、店員さんに聞いてみると、どうやら使っているティーの生産元?が変わったらしい。それに伴って、スタバのメニューのなかのティー商品が一新されたようだ。

よくよくメニューをみてみると、以前はホットティーラテには、アールグレイイングリッシュブレックファースト、リーフチャイ、ほうじ茶の4種類があったのだが、リーフチャイがなくなり、カモミールに変更されていた。(ただリーフチャイとは別に、チャイティーラテという商品は以前からあり、それはまだ残っているので、チャイティーが飲みたければアイスもホットも頼める。よかった。チャイティーラテのアイス、甘さひかえめ、はよく注文する商品だった。)お店には六角形をしたおしゃれな『TEAVANA』についての説明書きが置いてあり、店員さんに『詳しくはこちらに書いてあります』とその六角形のおしゃれな説明書きを手渡された。フルカラーで凝った作りをしてあり(だいたいスタバの説明書きはどれも凝っていてお金がかかっていそう。)、けれど中身はほとんどなく、ただ『TEAを多彩に変えていく。』とだけ大きくかかれており、読んでもはっきりしたところは分からなかった。そういうところがスタバらしくて可愛らしいと思う。そうして無駄に可愛いので捨てるのが躊躇われ、このあまり中身のないカラフルで可愛らしい六角形の説明書きをどう処分しようか悩んでいる。

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いまプッシュされている商品は、ネクタリンピーチという桃を使ったフラペチーノ。

けれど毎回このスタバがプッシュしているフラペチーノに関しては『おいしそうだなあ』と眺めて終わる。甘い甘いフラペチーノは苦手なのだ。ひと口で十分と思ってしまう。ドリンクなのかスイーツなのかよく分からない。おいしそうとは思うし、ひと口ふた口は間違いなくおいしいのだけど、1杯まるまる頼もうと思ったことはない。飲み切れる自信もない。

なのでそれは諦めて、これまた新商品の『アイス ゆずシトラスティー』を注文してみた。店員さんに何度も『甘いの苦手なのですが、甘くないですか?』と聞いた。店員さんは『アイスであればそれほど甘くはないとは思います。ゆずジャムが入っているのですが、それを少し減らしましょうか。』と親切にも丁寧な説明と提案をしてくれた。だからスタバって好きだ。

アイス ゆずシトラスティーは、確かにそれほど甘くなく、飲みやすかった。ゆずジャムに関しては甘かったけれど嫌な甘さではなかったので、しかも大部分がストローで吸い込めずにカップの底にへばりついてしまっていたので、ジャムを減らしてもらったことを少し後悔した。

そうしてその後、『ホット スターバックスラテのブラべミルク』を注文した。これは砂糖の甘さが苦手だけれど、濃い生クリーム系のもったりした甘みが好きなひとにおすすめのカスタマイズだ。わたしはスタバが好きだけれど通という訳ではないので、『スターバックス 裏メニュー』でググってみつけたカスタマイズだ。ブラべミルク(ブレベミルク、ともいうらしい。レシートにはブレベと書いている。どちらでも通じる。)は、スターバックスメニューのなかで、ミルクを使っている商品であればおそらくどれでも注文することができる。『ホットスターバックスラテをブラべミルクで。』と注文すれば作ってくれる。ただ、気を付けないといけないのは、このブラべミルクはかなりまったりしていて濃く、泡立てる前の生クリームを飲んでいるような味がするので、ショートサイズがおすすめだ。以前グランデサイズで注文した時には、胃がもたれて全部飲み切ることができなかった。

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おすすめのオリジナルカスタムがあれば教えてください!

 

ポケモンGOしてる

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ポケモンGOしてる。世間ではひきこもりを家から外の世界へ出したとか言われているけれど、わたしにとっても、ポケモンGO日本公開の時期は、ちょうどいいタイミングだった。

初代ポケモンはわたしが小学生の頃遊んだゲームで、当時ゲームボーイは持っていたけれど、結局買ったカセットはポケモン緑、ピカチュウ、ゴールドの3種類だけだった。だからゲームに疎いわたしでも、ポケモンだけは知っている。ポケモン言えるかな?とかいう、イマクニ?とかいうひとが歌っていた歌も歌える。アニメのポリゴンショック事件の日は、友達の家でちょうどその回のアニメを観ていたけれど、夕飯を御呼ばれしていたおかげで少しテレビから離れて観ていたので特に何も起きずに済んだ。

 

初代ポケモンの最終パーティーは、フシギバナピジョット、サンダース、サンドパンユンゲラーラプラスだった。特にサンド(サンドパン)は本当にめちゃくちゃ可愛くって、お気に入りで、当時はサンドパンのきりさく、あなをほる攻撃がかなり強い技で、だからいまポケモンGOサンドパンがあまり活躍できないのが少し寂しい。けれどサンドの画面でタップすると、『くりゅーん』って鳴いてぴょんって跳ねてくるくるくるーと高速回転してみせてくれるの可愛いから許す。

 

ピカチュウももちろんとっても可愛いと思う。ピカチュウ任天堂様からかなり待遇を受けていて、ポケモンGOでも『ピカチュウ』って鳴くの、ほんと可愛い。野生で出てくるときの威嚇も可愛くって威嚇になっていない。(あと威嚇モーションでピカチュウと肩を並べる可愛さなのはニャース)ズリの実あげるとハートマークだして喜ぶの可愛いからいつもズリの実あげてる。頑張ってライチュウに進化させたけれど、当たり前だけれど、もうピカチュウって鳴かなくなった。ライチュウ、とも鳴かない。あれだけ一緒に相棒として歩いたのに・・・・少し悲しい。

 

いま一緒に連れて歩いているのはゴース。ゴース、思っていたよりも大きくで(というか全体的にポケモン思っていたよりも大きい。コンパンとか恐怖。)絵的には少しホラー。けれどゲンガー欲しいから連れて歩いている。

(無題・2)

おやすみのこと 他愛もないこと

(無題) - 世界を食べたキミは無敵。からの続きです。

 

母は言った。『××君の時は、かわいそうだけれど、××君はここまでしか生きられない人間だったっていうか・・そういう、太く短くしか生きられない人生だったんだって、悲しいけれど思ってた。周りがどうしようと、××君は死んじゃってたって。でも、○○ちゃんのことは・・話を聞く限り、もしかして、周りの人なり、環境なり、なにかのめぐりあわせがよければ・・誰か一人でも、手を差し伸べてくれる人がいれば、変わったんじゃないかって。死ななかったんじゃないかって、思うよ。そう思うと、やりきれないね。』

 

 

夢をみた。

わたしはどこかの見知らぬ街の地下鉄の駅にいた。大きな駅にいたがそこがどこかは分からなかった。知らない街で知らないビルが建っていて知らない駅員さんがいた。駅員さんはわたしをどこかさらに遠い聞いたことのない街へ行かせようとしていた。夢だったのでわたしは何も不思議に思わずそれに従っていた。そしてわたしには使命が与えられておりなぜか他の乗客と殺し合いをしなくてはならないのだった。ポケットにはいつの間にか折り畳みナイフが入っていた。飛び道具でないことが残念だった、わたしの頭は正しい判断がなされていなかったのだ。ポケットに入ったナイフの使い方も知らないのに。

わたしは目の前に止まっていた電車に乗り込もうとしたが、そこにはかつての同期がいた。同期とは殺し合いをしたくなかった。反射的にわたしは『わたしこの後の電車に乗るから、先に乗っていって』と同期に言った。同期はわたしの気持ちを知ってか知らず出か、うん、と言ってさっさと止まっていた車両に乗り込んでいった、そうして先に行ってしまった。次に来た電車は終電だった。なぜだかは分からないけれど次の電車が終電ということになっていた、夢とはたいていそういう風に不条理や理不尽な条件が当たり前のこととして認識されている場所なのだ。わたしは、この電車が終電なのだから、これに乗らないといけないと自然に思っていた。終電の列車はなぜか屋根がなく、まるでジェットコースターのような車両になっていて、わたしは1両、2両ととまりかけていた車両を1台1台目で追っていった。そうして電車は止まり、最後尾の車両に乗り込もうとしたわたしは、その車両に鎖で繋がれるような形で繋がっていた、1台の船のような形をした列車をみつけた。それは前に来ていた車両とは明らかに形が違い、本物の船のようなものだった。船は茶色か、黒い色をしていた。船には2人の先客が乗っていた。それはすごく暗い船だった。わたしはその船に乗り込もうとしてその先客の顔を見て、凍り付いた。その先客の2人は、あの自殺した2人だったのだ。

『この船には乗ってはいけない』

そう直感した。

わたしは2人の顔に目を向けることなく、逃げるようにその船から降り、その船のような列車のひとつまえの車両に乗り込んだ。夢の中だったけれど、心臓がバクバクと鼓動を打っているのを感じた。『そういうことか』。夢の中でわたしは悟った。なにがそういうことなのかどうか分からないけれど、理不尽な夢の中では、それは確かに『そういうこと』であり、そう在るべき仕様だったのだ。その船はわたしの夢の中で、死者の乗る船だったのだ。わたしは『死者の乗る船』ではないジェットコースターのような車両に乗り込んだ。

そうしてすぐに場面が変わった。(正確にはその間にも何らかのストーリーが夢の中では進行していたのかもしれないが、わたしの記憶にある内容では、その間がすっぽり抜け落ちている。)

わたしは屋根のない、ジェットコースターのような車両に乗っていた。周りは木々が生い茂っている森のような場所を走っていたが、その木から伸びている枝は乗客から近い場所まで伸びており、手を伸ばせば容易に触ることが出来た。緑の葉を近くに感じ、風をうけて列車は走っていた。

隣には女の子が座っていた。女の子は気づかないうちに座っていたが、しかしおそらく彼女はずっとわたしの隣にいたような気がした。そう、黒くセミロングの髪をした女の子は、まぎれもなく、自殺した後輩だった。

(さっきまであの後ろの船にいたのに、いつの間にここへ移動してきたのだろう)

しかしそんな小さな疑問は夢の中ではすぐに消えて、わたしは彼女に話しかけていた。そうして、これは夢であると理解した。不条理で理不尽な夢の中でも、彼女がもうこの世にはいないということは、わたしには真実として解っていた。夢であるけれど、彼女と何か言葉を交わしたかった。何を話したのかは覚えていない。彼女は生前と変わらない、白い顔と泣きそうな笑顔で、わたしに話しかけてくれた。何を話したのかは覚えていない。けれど涙があふれて止まらなかった。泣きながらわたしは彼女と言葉を交わした。これは夢であると、そしてさらに言えば彼女がわたしの夢の中で発した言葉は、わたしの頭が作り出したに過ぎない言葉であるのに。辛かった。これは夢であると分かっていた。なぜこんな夢をみているのだろう。

 

現実の世界で、わたしは覚醒した。

悲惨な夢だった、慰めにもならないと思った。胃の中が鉛が入っているように重かった。何も変わらないいつもの憂鬱な朝が来ただけだった。さっきまで隣に彼女がいた、そういう気配は1ミリたりとも感じなかった。病院へは行きたくなかった。もう仕事をできるような精神状況ではない、人の死を、相手にするような病院では、今のわたしは潰れてしまいそうだった。とりあえず私は母親に電話し、一通りの夢の内容を話した。夢の内容をひとつひとつ話しているうちに、現実の世界のわたしも涙があふれてきた。母親は『きっと○○ちゃんが、会いに来てくれたんだよ』と言った。違う、そうじゃないんだよ。あれはわたしの頭が作り出した想像の産物なんだよ。ぼんやりしていた頭の中が少しずつ晴れてきて、現実感を徐々に取り戻してきたと同時に、涙もあふれるのを止めた。感傷的な気持ちは、足かせになるだけだと冷静なわたしが頭の中で言ったような気がした。現実の世界は一つだけしかない。彼女はもういない。わたしにあるのは、彼女のもういなくなった、この世界だけなのだ。

 

 

思い出さなければならない。思い出そう。彼女の事を。彼女はわたしに何を遺してくれたのだろう。彼女の死のなかに、死のなかにですら、いや、死の中にこそ希望を見出さなくてはと思っている。わたしという人間はそうしないと前へ進めないのだ。自分のこれまでの感情処理において未来への希望が一歩を踏み出せるエネルギーになると、この重い重い最大静止摩擦力にはこの出来事における『意味』がないと事態は動いてゆかないと、そう感じている。彼女の自殺に意味を探すのではない。これから『わたしが』生きていくなかで、彼女の死を『どう処理するか』、その過程のなかで何らかの生きていく意味を見出していくのだ。

世界は生きている人のためにある。希望も慰めも、生きている人のためのものだ。悲しみや絶望ですら、生きている人間の特権だ。時は流れる。悲しみは、川の流れのように過ぎ行く時間のなかで、流され、薄まり、やがて気配だけ残して消し去ってゆく。しかし例えそうだとしても、わたしたちが抱える悲しみはひとつではない、悲しみが浄化される前に、新たなよどみが川に生まれ、その浄化作業に追われる。そうしてあらゆる悲しみがまるでパレットの上のマーブル色をした絵の具のように、絵筆でかき回すたびに、徐々に混ざる悲しみは黒い色を帯びていくのだ、初めの悲しみの色はもう跡形もなく、ただどす黒くなった絵の具をひたすらグレーにしてゆく作業に追われてゆく。初めは、ひとつの色だった。青色をした悲しみは、澄んだ水に溶かされて水色になり、徐々に透明になってゆき、宝石を溶かしたようなエメラルドグリーンになってゆき、過ぎれば綺麗な思い出だったな、と思うはずなのだ。そういうイメージだったのに、いつのまにか遅くなってゆく浄化はあらゆる色の悲しみを混ぜ込むようになってしまい、浄化のイメージは黒い色になってしまった。彼女への悲しみは、何色をしているのだろう。赤色だろうか。鮮血のような赤だろうか。ルビーのような、透き通った赤。色白の彼女の頬によく似合う、赤色。この色は、混とんとしたわたしの悲しみのパレットの放り込みたくないと、そう強く思う。こんな所に入れてしまえば、儚い彼女は、すぐにでも消えてしまいそうなのだ。この赤を、消したくはない。

 

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日記はここで終わっている。

この出来事は、

(独白) - 世界を食べたキミは無敵。

この出来事とオーバーラップしているというか、同一スペクトラムに存在する出来事であり、わたしのなかでどうしようもない深く重い出来事として心の中に存在し続けることとなった。こんなこと、誰にも話せなかった。他人にわたしの気持ちを理解してもらうのは難しいことだろうなと思っていたし、話題として重すぎた。ただ、日々仕事をするなかで、『まるっきり他人の命を救うこと』の連続のなかで、わたしのなかのわたし1が、『お前の大切なひとも救えずに、何を偉そうなことをしている』と責めた。わたしのなかのわたし2は、何も答えることができなかった。仕事は仕事であり、決して意味のないことをしているとは思わないし、思いたくなかった。ただ、その時の自分にはその資格が無くなってしまったように感じたし、モチベーションを保つことが少しずつ難しくなっていった。いったいわたしは何をしているのだろうか、誰を助けたいのだろうか、誰を救うための仕事なのだろうか。

そうこうしているうちに、仕事が出来なくなってしまったのだった。

 

けれど、ここから這い上がらなくてはならない。悲しみの増幅というのは、自分の心がしていることであり、自分で自分の首をしめる行為なのだ。こんなことをしていたら、彼女はきっと悲しむだろう。わたしが泣いて悲しみに打ちひしがれているのを、天国から彼女は困って見ている事だろう。忘れるのではなく、この悲しみと、折り合いをつけること。浄化作業と、希望をみつけること。この世界で。この綺麗な世界で。きっといつか、自分にとって大きな糧になると信じたい。

(無題)

他愛もないこと おやすみのこと

これは、今年、平成28年の2月~4月にかけて書いた、日記のようなものだ。

忘れてはいけない、という思いと、心の整理のために書いたものだ。

ブログという公の場に書くことは、どうなのだろう、と思っていたが、この3週間程度の休みの中で、わたしは『自分の弱さを認めること』そして『わたしが弱い人間であるという事を、隠さずにみせること』ということを学んだ。これは、わたしがあまりにも様々な問題を他人(家族や友人)に話さず、ひとりで抱える傾向にある、というわたしに対する母親の評価に由来する助言だった。昔から、自分の思いを『口から発する言葉にする』のが極度に苦手だった。けれど、文章でなら、少しは伝えることが出来ると思う。そういう思いで、ブログで書くことを決めた。本当のところ、少し緊張している。このブログの存在は、自分のリアル生活における友人には、誰にも話していない。もちろん家族にも。(最も、父親はブログなどといったインターネットの世界に興味がなく、また、母親はわたしの個人的な日記は読まないようにするということを信条にしているようなので、知ったところで読まれないのだが)

唯一、1年半前に、四国から愛知へ病院をうつる際に、このブログのことを話した後輩がいた。かなり赤裸々に、そして自分の中だけに隠している気持ちや考えを書いているブログなので、本当に、彼女ひとりにしか話さなかった。なぜ彼女にだけだったのかということは、そんな大きな理由があるかというとそれは一言では言えないのだけれど、何となく、雰囲気として、彼女であればわたしの想いを『共有』してくれるだろう、という気持ちがあったからだった。彼女とは約1年間の付き合いだったが、濃い時間を過ごした相手であった。たくさんの想い出がある。そうして、わたしが愛知へ帰る際に、餞別の品として、バスセットと、短い手紙を渡してくれた。その手紙には、『あかめ先輩がいなくなったら、これからどうやって生きていったらいいか分かりません(笑)』と書かれていた。まさかその言葉が、今になってどれほどの重みを持つことになったのかということは、その手紙をもらった時には想像なんて出来なかった。

 

彼女は、もういない。彼女は、もうこの世界に存在しない。

 

これは作り話なんかではない。書いていて自分でも、嘘のように思えるのだけれども。

 

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後輩が自殺した。

後輩というのはわたしが初期研修をしていた病院で、わたしが2年目のときに1年目として入ってきた、明るく(みえる)はきはきした聡明な女の子だった。彼女は現役で医学部に入学したが、途中1年留年をしていたので、年齢はわたしと同い年だった。彼女は開業医の娘だった。しかし娘と言ってもひとり娘ではなく、同じく医学部へ進学した兄がいて、その兄も医者の奥さんと結婚したとのことで、跡取りに困っているようなお家事情はなかった。条件だけ見れば何不自由なく生きてきて、これからも生きてゆけるようにみえる人種の人間だった。おまけに彼女はほっそりとした体、胸もそこそこ大きかったし、愛らしい目をしていてひいき目でなく可愛かったし、先輩から好かれるような正直な性格をしていた。

彼女は研修医としてこの病院へ入る前に、何度か病院へ見学に来てくれていた。その当時わたしは研修医1年目だった。大きな病院ではなく、わたしの学年には他に女子がいなかったこともあり、病院のこと、研修内容のこと、その他他愛ないことなど、彼女が見学に来てくれた時にはいろいろと話したことを覚えている。そうしてすぐに仲良くなった。彼女はわたしのことを気に入ってくれていたのが分かったし、わたしもぜひこの病院に入ってほしいと思った。いろいろ教えてあげたいと思ったし、後輩として可愛がってあげたい、おいしいご飯を一緒に食べて、飲み会もして、彼女が後輩としていてくれれば楽しい研修生活が送れそうだと思った。

ある種の親和性というか、第一印象で、あ、この子とは仲良くなれそうだ、という雰囲気を持つという経験ってあると思う。いま周りにいる同性の友達を思い浮かべた時、その子と初めて出会った時のことを考えてみる。中には初めて出会ったとき、その第一印象がかなり悪く(しかもお互いそう思っていた)けれどその後とても仲良くなれるという子もいる。それほどの印象はなく、可もなく不可もなく、という感じでも、同じ時間を過ごしていくうちに仲良くなる子もいる。逆に最初かなりよい印象を持って仲良くなっても、どうしようもなく巻き込まれてしまったしがらみにより絶縁状態になってしまった子もいる。それでも初めに持った印象というのが良いと、打ち解け合うスピードは速いのだと思う。お互いの第一印象が最悪だった友達は、同じ部活動で嫌でも一緒に過ごす時間が長かったために、お互いを深く知る時間を持つことが出来たために仲良くなれた。たぶん、そういう環境に置かれなければ仲良くなることはなかったのだと思うし、相手の事をよく知ろうという気持ちにならなかったと思う。

その点彼女とは初めて会った時から、何というか、初めて会った気がしない感覚、今思えばどこかしら生い立ちや積んできた経験が似ていたのかもしれないし、根本的な性分が似ていたのかもしれないけれど、そういう印象だった。そうして、彼女が正式にわたしの後輩となってから、わたしと彼女の距離が寄り添うように近づくまでそう時間はかからなかった。

 

言ってもわたしが彼女と過ごしたのは、1年強という時間だった。

27年という人生を考えるとそう長くなかったのかもしれない。

 

彼女は自分のことを話すときには、基本的に自虐的なスタンスだった。自分の意見はおそらく心の中に持っていた。けれど他人の目や批判を気にしてなのか、表に出すことはそれほどなかったようにわたしには見えた。とても賢い子だったと思う、わたしの理解できる範疇を超えるほどに、そしてたまにいう『自分の意見』などは、すべて彼女の中で計算されて発せられた言葉なのではないかとわたしは思っていたが、それが果たして本当にそうだったのか、それともわたしの深読みのし過ぎなのか、今となっては知る由もないし、聞いたこところで彼女は答えなかったとは思う。

ゆきすぎた謙遜、固められた自我、抑圧された感情、泣きそうな笑顔。そういった言葉が彼女を形容するのには似合っていたと思う。それはよくないことだと思ったが、それを治すことが出来るほど彼女はもう小さくなかったし、その中でずっと生きてきてそこに居場所があり、彼女がいた場所、そこは傍から見ても、何もかもを振りほどき、自由になれるような場所ではなかった、正直に言うと彼女はあまり恵まれた環境に置かれていなかった。履歴書などに書けるような、箇条書きの条件ではみえないもの。周りの大人たちが、彼女の自由を奪っていた。それもおそらく、小さいころから、心の内部を、じわじわと蝕むように。そういったことを大人たちは悪意を持ってしていたことではないと思うが、悪意がなければ許されるかというとそうではないとわたしは思う。いや許すとか、許せないとか、わたしが口を出せる範疇の問題ではないので、やはりどうしようもなかったとしか言いようがないのだ。持って生まれたもの、自分の力で変えられないもの、そういったものは他人が批判すべきではないし、口をはさむべきではないとわたしは思う。そしてそれは、この出来事に対してやり場のない悲しみと、答えのない問いへの虚無感を生んでいる。誰かが彼女のいた場所から、引きあげてあげることが出来ていたなら。彼女の浸かっていた深みは、きっとわたしが想像していた以上に深く、冷たいものだったのだろう。そうして、わたしは、また自分が大切なひとを失ったことへの絶望を感じている。2年前に一度失って、考えたのではないのか。どうすればよかったのか。何をすれば後悔しないのか。

 

大学在学中の留年について、彼女は『遅く来た反抗期』といったニュアンスの事を言っていた。何をしていたのかと聞くと、彼女は『缶詰工場でアルバイトをしていた』と言っていた。確か、海産物系の缶詰工場と言っていたと思う。それについてわたしはとても笑ったが、ああ、そういう子なんだな、とも思った。そういう子、という感触をうまく言葉にできないが、なんというか、『病んでる』、ひと言で言ってしまえばそうなるのだが、繊細で、自分の気持ちを抑圧してしまうタイプの子というか、たぶん、医学部に現役で入学して、1年間の留年を缶詰工場のアルバイトに使う女の子って、そういないと思う。とにかく、わたしの中で彼女が異色を放っていたことは間違いなかった。そしてこのエピソードは、わたしに彼女をますます好きにさせたのだった。

 

彼女の自殺を聞いたのは、今年のお正月明けの事だった。

 

わたしは通っていた大学のあった県で初期研修の2年を終えて、遠い県外の病院へでていた。なので彼女と仕事をしたのは実質1年間だった、わたしの初期研修2年目と、彼女の初期研修1年目。今から半年くらい前に一度古巣へ行く機会があり、突発的に飲み会を開催したのだが、彼女は笑顔で来てくれて、コンビニでビールやおつまみを買ってきてくれた。その時私は3年目、彼女は2年目になっていた。あの時わたしは彼女と何を話したのだろう。直接交わした最期の会話になってしまったのだが、悲しいことにわたしはその内容を覚えていない。確かなことには、その時の彼女は、一緒に仕事をしていた時の彼女とそれほど変わってはいなかった。だからといって、彼女が精神的に病んでいなかったかどうかと言われるとその答えは難しい。もともと不安定な子だったのだ。ずっとそういった空気は纏っていた。それは付き合いが長くなればおそらく感じ取れる(こちらに感受性があれば)空気で、初対面だったり、その場をやり過ごすことに長けていたので、もちろん表立って暗かったりめそめそしたり弱音を吐いたりしない、むしろなぜいつもこんなに笑っていられるのかというくらいケラケラしていたので、ぱっと見ただけでは分からないが、ある程度付き合ってみてこちらにそういう感受性があれば、『この子は少し不安定なところのある子だ』ということに気づく、そういった空気を纏っていた。基本的に自虐的なスタンスだったが、それはあの時の彼もそうだった、そういったところはよく似ていた、そうして『この子は放っておくと危ないかもしれない』という微かな危険にわたしは気づいていたのだけれど、そう、だから半年前に久しぶりに会った彼女が『自殺の前兆を思わせるような』『特別な』雰囲気を醸し出していたかというと、そんなことはなかった。きっと、誰に聞いてもそういう答えが返ってくるのだと思う。記憶が確かなら、いや、確実に、わたしが最期に見た半年前の彼女は笑っていた。

 

お正月に『あけましておめでとう、元気にしていますか』というLINEを送ったのに、3日経っても一向に既読にならなかった時、嫌な予感が心をよぎった。しかし、その時わたしは、まさか自殺してしまっているとは思わなかった。研修を一時的に中断してしまっているかもしれない、とは思った。初期研修時代も、様々な問題(家庭のことであったり、進路のことであったり、恋愛のことであったりその他もろもろの事に関して)を抱えては泣きそうな顔で笑って話してくれていた彼女を思うと、仕事が出来ないくらいの精神状況に追い込まれてしまっていると聞いても、正直なところそう驚かなかった。もちろんとても辛いことではあるけれど、誰にでもそういう事はあるし、自分を責めないでほしい、近いうちにそちらへ行って元気づけてあげないとな、と思った。そして彼女について詳しく状況を聞くべく、古巣に残ったわたしの同期に『彼女、最近元気にしてる?』というLINEを送ってみたものの、そちらの方も3日経っても一向に既読にならず、嫌な予感は、少しずつ少しずつわたしの心の中で広がっていった。一度回り始めた嫌な予感スパイラルは、自分の重力を糧にしてあっという間に加速して回り始めていた。不安という小さな粒は、目に見える大きさの粒子となり、まるで霧のように拡がり濃厚な恐ろしい空気となってわたしの周りを覆っているようだった。何かがおかしかった。

おかしいと思ったら、もう、とにかく誰かに彼女の動向について聞かなければならなかった。手当たり次第に、最近の彼女を知っているであろう人間に電話をかけてみた。よく覚えているが、あれは大きな最寄り駅にあるスタバでの出来事だった。わたしは焦っていた。嫌な予感は、小さな風船を膨らませるようにじわじわとわたしの心のなかを支配していき、ちょっとずつ大きくなるそれは、スペースの狭くなった居場所からするっと抜け出すように口から吐き出させられそうになり、わたしに本物の吐き気を催した。吐きそうになりながら電話をかけた。電話は長いコールのあと、彼女の同期のひとりだった女の子につながった。

『もしもし』

電話に出たその子は、眠たそうな声をしていた。どうやら当直明けだったようだ。こんな時にごめん、と謝り、ところでさあ、○○ちゃんって、元気にしてる?とわたしは聞いた。

少しの間があった。

わたしは、今ほど隣に誰かにいて欲しいと思ったことはないというくらい、誰かしらにそばにいて欲しいと思った。聞きたくない。次に発せられる言葉は、聞きたくない。こんな思い、2年前にもう二度としまいと誓ったはずだった。

『えっと』

とその子は落ち着いた口調で言った。今思えば、その子は彼女の死をもうかなり前に知っていたのだ。そして、わたしがそのことを知らないであろうことも分かっていて、丁寧に言葉を選んでくれているようだった。

『○○ちゃん、じさつしたんです。去年の、11月くらいに・・』

ああ、と思った。ああ、またか。

またか、という絶望と、信じたくないという拒絶が、わたしの心の中で相いれない風に渦巻いていた。

またお前は友人をひとり殺したのだ、と頭の中で誰かが言ったように思った。

 

 

低空飛行するように、心の奥底を漂っていた疑問があった。近しい人間が立て続けに2人自殺してしまったことにおける、自らの、彼らに対する(自殺に対する)親和性についてだった。

友人Aによれば『それは偶然だよ』とのことであった。わたしとしても、そのことに関して追及したところで得られるものは皆無だろうし、誰も得することではないという事は理解しているつもりだし、だから何と言われればそれまでだ。深追いしてもいいことではないから、この考えはここでおしまいにしなくてはならない、それでも考えてしまう、これがただの偶然なのだとしたら、わたしの人生を動かしている神様はなんて非情なのだろう。

 

 

一連の出来事について、詳しく知っているひとは数多くはいないようだった。家族にとっても、近しい病院関係者にとっても、言いふらすべき事柄ではないし、古巣においてもまだ知っている人は少ないと思います、というのが電話先の後輩の話だった。それでもどこからか情報は漏れるのだろうし、この話はそのうちにひっそりと広まってゆくのだろうなと思った。また別の人間から聞くことには、彼女は遺書をのこしていたらしく、その内容は主に感謝と謝罪の言葉であったらしく、そして練炭自殺だったらしかった。練炭自殺というのは辛かった。いや、どんな死に方でも辛いのだが、前々から準備をしていた死に方というのは彼女の死への願望が突発的なものではないことを物語っており、死へ向かわせないルートが残っていた可能性を示すものであり、そう思うとやりきれなかった、ただ、ただただ、やりきれなかった。

2年前に死んだ彼についてよく知る友人Aに、『また』友人が自殺してしまったことを話すと、彼はわたしが大丈夫かどうか一通り聞いてくれたあと、『きみの心情は察するに余りあるよ』と言ってくれた。心情は察するに余りある。わたしは彼のこういった言葉遣いがとても好きで、心地よく感じた。同じ痛みを知るひとに寄り添ってもらえることがどんなに幸せなことかと思った。しかし皮肉なことだと思う。大切なひとを亡くして、大切なひとを再確認する。失って初めて気づくありがたみ、という言葉に異論はないが、失わないと気付けない痛みというのはずいぶん子供な出来事のように思う。もう過去に過ぎているはず、学習している痛みのはずで、それを繰り返している自分が馬鹿みたいだった。2年前の友人の死は、ずいぶんわたしを変えたのだと思う。それは成長といえば成長だし、大人にさせたといえば大人にさせたし、痛みを鈍くしたといえば認めたくないがそのようであるようだった。自分はずいぶん、痛みに鈍感になったものだと思う。ひとは傷つく出来事を経験してゆくたびに、自分を守るために心に鎧を纏うことを覚える、使いまわされている比喩表現だと思うが本当にその通りだと思う。わたしは鎧を纏ったことで痛みに鈍感になっている。死んだ彼女のことも、どこか遠い国でおきた出来事のように感じている。

たぶん、どうしたらよいのか分からないのだ。2度の大きな失敗は、わたしの自信を喪失させるのに十分だった。

痛みに鈍くなった分、浄化も同時に鈍くなっているようだった。痛みはいつまでもくすぶっている、彼女の死は、近い将来に綺麗に浄化されることはないのだろうという確かな予感をはらんでいた。

 

(無題・2) - 世界を食べたキミは無敵。 へ続きます。

スタバにて

仕事関係のこと 他愛もないこと

たいていの時には、スタバにいる。

いまも、カフェミスト(のデカフェでソイミルク)を飲みながら、パソコンに向かっている。

スタバという場所は何となく、自分に酔っているというか、いわゆる意識が高いひとが行くといういうか、あまり良くない意味でのハイソなイメージを持っているひともいるようで、というか自分が落ち着く場所ならばどこで何をしていても構わないと思うのだけれど、わたしはスタバで村上春樹を読むのが好きなので(ただきょうカバンに入れてきたのは米原万里の『旅行者の朝食』)、そういった行為をしている自分が好きなのかもしれない人間なのだけれど、それで自分が満たされるのならそれでいいと思う。

 

前回の記事をみるに、ちょうど1年間ほど、このブログを放置していたようだ。

放置といっても、このブログの存在が頭から消えてしまっていた訳ではなく、むしろ書こうと思ったことは色々とあったのだけれど、頭の中でそれらの事柄を処理して文章にするという行為以上に、心のなかで処理しなくてはならない事柄が多すぎて、文章にするという行為が追い付かなかった。

ブログを書く、自分の感じたこと、考えたことを文章にするということは、自分の身に起きた事柄を振り返る事にほかならず、文章を考えている最中には何度もその事柄を頭の中で反芻することとなる。

結論から言うと、わたしは、見たくない過去から目を逸らし放置していたせいで、つまり自分に起きた事柄を反芻することを拒否していたせいで、ブログを書くことが出来ず、それどころかそのうち心を傷めてしまっていた。浄化が追い付かないほどの出来事が、この1年間にあった。それは、いま、振り返ることが出来たからこそ、解る。渦中にいるときには、そういった渦の中に自分がいることは認識できないものなのだということも、認識した。辛い出来事を反芻することはとても苦しいものだ。その一時には、とてつもない身体と心への負担がかかる。けれどそれをしないことには、その辛い出来事は、雪のうえを転がしたときの雪玉のように、時間を巻き込んでどんどん膨れてゆき、そのうちもっと大きな形で自らを苦しめることになる。想い出は時を経るごとに美しくなってゆくというけれど、どうも辛い出来事のなかには、時の流れだけでは浄化しきれないものもあるのだということを知った。そういったものを、もしかしてトラウマと呼ぶのかもしれない。

 

わたしは様々な限界がきて、ここ1か月仕事をお休みしていた。いまも、そのお休みの最中だ。上司から、文字通りドクターストップがかかった。どうしても仕事は続けたいと身体は思っていたけれど、それは難しいことだと心が諦めがつくほど、そのときの精神状況はボロボロだった。とりあえず実家に連れ戻された。最初の一週間は罪悪感でいっぱいで、何とか仕事に復帰できるようにしなきゃと焦るけれども頭が回らず、自分はこのまま呆けてしまうのではないかと本気で思った。記憶の定着も悪く、夢のなかで生きているようだった。現にいまも、仕事を休む前後1週間くらいの記憶が曖昧だ。眠ると怖い夢をみるので夜も眠れなかった。しんどいのは午前中で、吐き気とひどい倦怠感ととてつもない絶望のなかで朝を迎えた。ひどい状態だった。このまま消えることが出来ればどんなに楽だろうかと感じた。何もしたくなかった。両親がいなければ、本当に、いま、生きていなかったかもしれない。無理矢理エネルギー源を口から詰め込まされ、少し外を散歩したり、あるいは世の中の出来事をぼんやりテレビで眺めながら、そうしているうちに夜がきて、お風呂に入って布団に入った。そしてまた泣きそうになりながら微睡みの中朝を向かえる、そういう日々を1・2週間送った。

 

仕事を休む前、心療内科の先生は、わたしが仕事を何とか続けていきたいというニュアンスのことを話すと、それはあまりよい選択肢ではないと言った。本当に、どうしても、仕事から離れたくなかったのは、ここで休むと、もう仕事に復帰できないと思ったからだ。それでも、その状況ではとても命を扱う仕事は出来なかった。そういうことも、理解しているつもりだった。こんな状態の医者に診られるなんて、患者さんには申し訳が立たない、けれどしなくてはならない仕事に穴を開けることはどうしても避けたい、けれど長期的にみて重要だったのは、この状態をきちんと立て直すことだ、本当に、断腸の思いだった。大切なのは、未来の患者さんを助けることだ。涙をボロボロをこぼしながら、先生の言う通りにします、と振り絞るように言い、わたしは職場に休暇届を出しに行った。同期や、後輩、先輩に、本当に申し訳ありません、元気になって帰ってきますと言い、そこから、少し長いわたしの浄化作業ははじまったのだった。

職場の方々には、本当に感謝している。結果的に、休んだことは正解だったようだ。

こうして、ようやく日々を、振り返るという行為ができるようになった、それだけでも自分としては大きな一歩だと思う。また、この、自己満足の文章を、書いてゆこうと思う。浄化作業だ。後輩への、弔いとして。