世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

長い髪の毛は何を隠す

髪の毛を伸ばし始めたのにはいちおうどうでもいい理由があって、それは働き始めて運動習慣がなくなって少し丸くなってしまったこの顔の輪郭を隠すためで、そういうわけでかれこれ2年半くらい、わたしは髪の毛を伸ばしていることになる。

 

ほんとうに、どうでもいい理由だった、伸ばし始めたきっかけは。

 

小さいころからロングヘアよりショートカットの方が好きだった。スカートよりズボンが好きな、おてんばな小学生だった。休み時間は男の子にまじってドッジボールをするような子だった。髪の毛は、いつでもショートカットだった。中学生、高校生の頃は、特に理由もなかったが、セミロングくらいをうろうろしていたように思う。それほど髪型にはこだわりがなかった。大学生になってからは、いつもショートカットだった。嫌なことがあって気持ちが落ちると、髪の毛を切って解消するようなことをしていた。好きだった漫画『ご近所物語』の実果子がそうしていたのに憧れていた。漫画の中で実果子がそうしていたように、金髪ベリーショートにしてみたりしていた。そういうわけで、髪の毛を切ることになんら抵抗はなかった。

 

2年半前から伸ばしている髪の毛は、いま、胸が隠れるくらいまで伸びている。

けれど正確に言うならば、伸ばしているのではなく、切れないでいるのだ。この長くまで伸びた髪の毛を。それは、未だに顔が丸くその輪郭を隠したいからとか、そういう理由ではなく、もっと、わたしのなかではしょうもない理由、しょうもない理由で髪の毛を伸ばしている、伸ばさざるを得ないと思っている、ほんとうは切りたいのに、伸ばさないといけないと半ば強制的に思い込んでいる、そうしてずっと伸ばしている。

髪の毛は短い方が洗うのも楽だし、乾かすのも楽だし、手入れだって楽、この限りある大切な時間を有意義に使うためにはショートカットの方が楽に決まっている。もともとそれほど髪の毛には無頓着なので、こんな髪型をしたいだとか、アレンジが好きだとか、そういうことは思っていないので、わたしにとっては本当に長い髪の毛にはメリットがないのだ。ただ朝の大事な時間を、髪の毛をセットするために割かないといけなくて、実際かなりのストレスだ。

 

女医さん、特に外科系の女医さんはショートカットの人が多い。

たぶんそれは、時間短縮とかそういう目的もあると思うけれど、元来スポーティーというか、男っぽい、サバサバしたひとが外科に行きがちのため、ショートカットのひとが多いという理由もあると思う。どちらにせよ、わたしもそういうなかのひとりだ。

 

昔、アンデルセン童話かなにかで、愛し合った貧乏なカップルがお互いへの贈り物を買うために、自分の大切なものを売るという話があった。女の子は長くのばしていた自慢の髪の毛を売って、相手が持っていた懐中時計につけるためのチェーンを買った。しかし相手の男の子は、自分の懐中時計を売って、女の子の自慢の髪の毛を梳く櫛を買ってしまった。お互いがお互いへの贈り物のために自分の大切なものを売ってしまい、それぞれの贈り物は役に立たないものになってしまった。けれど、大事なのは相手のために自分の大切なものさえ犠牲にするという気持ちだよね、といって、そんな心温まるストーリで終わる物語だった。

そう、長い髪の毛だ。わたしが小さいころこの童話を読んだときに、そんなに髪の毛って大切なものなのかなあ、という感想をもったのを覚えている。その話の中で女の子は髪の毛を切る時に涙を流していた、うつむいて涙を流しながら、怖そうな魔女みたいなおばあさんにはさみを入れられている、そんな挿絵が描かれていた。たぶん大切に伸ばしていたのであろう綺麗な髪の毛にはさみをいれることが、まるで命でも失うかのような、そんな描かれ方だった。わたしはそれをみて、子供ながらに、現代には合わない考え方だな、と思った。ずっと昔には、髪の毛が高く売れる時代があって、長く綺麗な髪の毛は女の人の象徴で、けれどいまの女の人はショートカットにして、強くたくましく社会で働いている、小さかったわたしは、ニュースやドラマでみるそんな女性像に憧れていて、それが『いま』の社会では普通のことなのだと思っていた。

 

 

別に、『いま』だって、それは普通のことなのだけれど、別に『女の人は髪の毛を伸ばさないといけない』なんてそんな規律があるわけではないのだけれど、『長く綺麗な髪の毛が女の象徴』だなんてセクハラか時代遅れかがいいところなのに、世間ではなく自分が、自分で自分をがんじがらめにする考えによって、動けなくなってしまっている。

胸を隠すくらいまで伸びたこの髪の毛を、どうにも持て余している。

いつからこんなに、『女であること』を意識するようになってしまったのだろう。女らしくしないと、という考えが、小さな行動ひとつとっても常に頭の中で働いている。それは働き始めるようになってからだと思う。そうでもしないと、自分が男にでもなってしまいそうなのだ、たぶん周りはわたしに女らしくあることを求めている、それは同期でも後輩でも上司でも、そして家族ですら、そういう雰囲気が伝わってくる、女であれと、いついかなる時でも、例え緊急手術で夜中に呼ばれたとしても女であれと、けれど一番はわたしなのだ、すごく、女でなくなってしまうことに怯えている。

 

髪の毛を切ってしまえば楽だ。

別に、髪の毛を切ったところで、わたしの性別が女であることに変わりはないし、ショートカットでも可愛らしくしている女の人だっていくらでもいる。

けれどいまの自分の中で、この長い髪の毛は、わたしが女であることの象徴なのだ。

例えシャンプーに時間がかかっても、トリートメントにお金がかかっても、セットに時間がかかっても、いまはこの長い髪の毛がわたしにとっては必要なのだ。丸くなった輪郭を隠すために伸ばした髪の毛は、いま、もっと多くの事柄を隠してくれているように思う、誰かに悟られないようにそっと隠している多くの事柄を。しょうもないと思う、非常にくだらないし、わたし以外の人間にとってはどうでもいいことだ。こんな考え方、嫌いだったはずだ。人って変わっていくんだな、と思うと同時に、変わっていく自分に自分がついていけないでいる、ほんとうは、髪の毛を切りたいのだ。

いつか、もう少しだけ時間が経てば、髪の毛を切れる時期が来るかもしれない。たぶんその時には、なにか大きな出来事が自分のなかで起きた時だと思う。そうでもないと、この、忌まわしい、長い髪の毛を切る踏ん切りはつかない。