世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

丁寧に生きることについて、卵焼きを焼きながら考えてみた。

『丁寧に生きる』ってどういう意味なのでしょう。

どんな生き方を、丁寧に生きる、というのでしょう。

 

 

ちょっと意識が高いインテリ女子雑誌とかではきっとこんな感じで紹介されています。『仕事に追われている今こそ”丁寧に生きる”』『100人に聞いた!”丁寧に生きる”ことで見えてきたキャリアプラン』。こんな見出しがぱぱぱっと頭に浮かびます。ボタンやレースなんかを集めているような、ゆるゆるふわふわした女の子が出てくるような雑誌でもよく見かけるような気がします。『ハーブと紅茶でつくる、”丁寧な生き方”。』『”丁寧な生き方”で休日を彼氏さんとほっこり過ごす。』こんな感じでしょうか。あまり続けるとだんだん大喜利をしたくなってくる私の悪い癖が出てきそうなのでこのあたりで止めておきます。

 

なんとなく言わんとすることはわかるような気がしないでもありません。きっと、1日1日を大切に生きる、とか、当たり前のものを当たり前と思わないで生きてゆきましょう、とかそんなニュアンスの事なのでしょう。けれど、じゃあ、具体的にはどんなことをしたらいいのでしょうか。

雑誌やネットでは、あらゆる『丁寧な生き方』の方法が指南されています。それらはひとつひとつをパッと読むと『なるほどそれは確かに良い生き方だなあ』と納得できるものが大多数です。『いい事』ばかり書いてあるからです。

たとえば『コーヒーを家で挽いて飲んでみる』『自分で料理をして、きれいな器に盛り付けてみる』『ハーブを育ててみる』。これらは確かに素敵なことばかりです。こんなことができる毎日を想像したら、とても心に余裕がある生活ができそうです。けれども、逆に、心に余裕があるときにしかできない生活スタイルのような気もします。暇な日曜日にハーブなんて育ててみたら、月曜日火曜日はちょこっと水をかけたりするのですが、木曜日あたりには水が乾いて枯れかけてきて、植物1つ育てられない自分を情けなく思い、金曜日の夜には下がったテンションを上げるために、ええいヤケ酒じゃあとモヒートをがぶ飲みして、やっぱり市販のハーブの方が旨いや。ってなる自分の姿が目に浮かびます。

 

『あなたに本当に必要なものだけを選ぶ』『ありがとう、といって過ごす』などは、それができれば苦労しない系の丁寧な生き方ですね。言われなくてもわかっています。という感じ。それができないんだよー。『毎日が命日だと思って過ごす』というものも見かけました。確かに『明日地球が滅びます』と言われた時に過ごす1日はとても丁寧に過ごせるような気がします。想像してみましたが、確かに自然と『ありがとう』の言葉があふれてくると思います。本当に大切なものが見えてくるでしょう。大切なものと過ごそうとするでしょう。しかしこれを毎日やるのはちょっと難しそうです。おそらくかなりの高い確率で、明日は地球もあり、日本もあり、目の前には滅びてくれない仕事があるからです。『明日が自分の命日だ』と思って過ごすのも少し気が張りすぎて私には精神力が持たなさそう。普段そっけない友達に『ああ、ありがとう、本当にありがとう』と言って過ごしたら周りに本当に自分の命を心配されそうです。そしてこの『明日命日』の逆パターンも『丁寧な生き方』の具体例にはあり、『1日を72時間だと思って、1日でできることを3日かけてゆっくりやるようにしてみる』というスローライフ系の方法です。これはこれで納得する部分があるのですが、真逆のことを言っていて、どれをしてみたらいいのか、丁寧な生き方素人の私には道しるべが多すぎて、漕ぎ出した船が山に登ってしまうのです。

 

 

 

で、普段からこんなことを考えているわけでもなく、丁寧な生き方を模索することなく、相変わらずぽーっとした毎日を過ごしているわけでした。

そんな中、別に丁寧な生き方を意識したわけでもなく、お弁当を作り始めたというお話です。

私は最近毎日お弁当を作るようにしているのですが、料理はほとんど素人だったのですが、せっかくだし花嫁修業にもなるだろうと、きちんとレシピ本を見て作るようにしました。これまでは、たまに自炊することがあっても、家庭科の授業のわずかな知識を頼りに作っていた程度のものでした。そんな人がレシピ通りに料理をしようとすると、1つ作るごとに2つくらい調味料を買わなくてはならなくなるのです。ナンプラー、豆板醤、ワインビネガー、鷹の爪、あらびきこしょう、セージ?そう、セージ。とか。けれどもせっかく始めたことですし、あきらめてはいけないと、少しずつ調味料も買い足して、1品1品レシピ通りの料理を覚えていっています。ほんと1週間に新しく覚える料理は2、3品とかそんな頻度なんですけれど、まあ、なんというか、嬉しいものですね。新しくきっちりしたスキルが身に付くというのは。ここまできたら諦めるのももったいないと思うようにもなりました。

 

そんな私が好きな料理は、卵焼きです。溶いた卵に、レシピによると基本的には、だし汁、みりん、しょうゆ、ごま油、砂糖を入れます。そこに自分の好きな具、たとえば青のりとか、鮭フレークとか、すりおろしにんじんとか、なんでも入れてアレンジができます。くるくるっと巻いて楽しく、お弁当で映えるし、何よりおいしいので大変重宝している一品です。

卵焼きって、『しょっぱい味付け』が好きな人と『甘い味付け』が好きな人にわかれたりしませんか?私は『しょっぱい卵焼き』が好きでした。甘い卵焼きはあまり好きではありませんでした。私は単純なので、レシピを見ずに卵焼きを作っていたときは、しょっぱい、という味のイメージから、塩やしょうゆだけを調味料として使っていました。確かにそれでしょっぱい卵焼きができていました。しかし、レシピに乗っている作り方ではしょうゆと砂糖が一緒に入っています。これはどんな味になるのだろうと思っていたのですが、まあ頭のいいみなさんにはわかると思うのですが、『あまじょっぱい』味がするのです。初めて作ったときは、どちらの分類に入れることもできない、けれども今まで作ったものとは違う深い味わいで大変感動したのを覚えています。砂糖の甘さもするし、かといってあまったるい訳ではなくご飯に合うようなしょっぱさもあります。これ以降、私は何度も卵焼きを作っては、砂糖やしょうゆの量を調節して自分好みの味を探しています。少し砂糖を多めに入れると甘じょっぱくなるし、しょうゆを多めに入れるとしょっぱ甘い卵焼きになります。どちらかに偏ることなく、絶妙なバランスをもって成立する卵焼きの味。

ある日私はレシピ通りに作った焼きたての卵焼きを味見しながら、ふと、舌の上で『しょっぱい味』と『甘い味』は共存していることに気づきました。気づいたというか、これまでも気づいていたことは気づいていたのですが、初めて『認識』しました。別にどちらの味だけがするというのではなく、どちらの味もするのです。これまで『しょっぱい』と『甘い』は卵焼きの味において対立するものだと思っていました。けれど違いました。これらは独立事象でした。ああ、これが味のハーモニーというものなのか。彦摩呂の台詞がようやく、自分のものとして実感できた瞬間でもありました。

 

で、ここで私は自分の性格を思いました。『明るい』時の私と、『暗い』時の私。おそらく誰もが経験したことのある感覚ではないかと思うのですが、バイオリズムによって自分の性格が180度くらい変わって、まるで自分が二重人格なのではないかと感じること。まるで自分のなかに相反する2人が住んでいるような感覚。明るい、暗いだけではなく『あの子の事は好きだけど嫌い』といった複雑な感情。私は、これらを何とか統合しなくては、1つのモノにまとめないといけないと思い込んでいました。けれど、もしかして、相反すると思っていた2人の私は独立事象で、『マンガが好き』と『ニンニクの芽が苦手』くらい仲良く共存できる性質なのではないかと、ふと思ったのです。卵焼きを食べながら。しょっぱ甘い味のする卵焼きを食べながら。

 

こういった考えはいわゆる『グレー』な考えです。しょっぱいし、甘い。好きだし、嫌い。卵焼きでグレーが成立しているなら、私の考えもグレーでいいはずだ。と勝手なこじつけをしたら、少し心が軽くなりました。この考えが正しいかどうかも『グレー』です。けど、それでもいっか、今は。心が軽くなれる方が、合っている道だと思って進みましょう。

 

ここで、もしかして私、いま、丁寧に生きてる?と思いました。レシピ通りに料理を作ってみたら、ただおいしい料理がデキタネ。生活が彩りユタカダネ。だけではなく、自分なりの生き方のメソッドに出会えました。

ほんとうは、あまりこれといった『丁寧な生き方』ってものはないのかもしれませんね。というか、たくさんありすぎるのかもしれません。たくさん並べられている『丁寧な生き方』からいくつか手に取って試してみて、自分に合ったものを使っていくのが正しい方法なんでしょうかね。もし、そのようなときには、『レシピ本通りに料理を作ってみる』という方法も、片隅に陳列させていただけたらなあと思ったのでした。