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世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

今日もこの感情に似合うコトバを探しているのですけれど、カバンの中も机の中も探したけれど見つからないので、夢の中で踊りませんか?

他愛もないこと

時をかさねるごとに ひとつずつあなたを知っていって

さらに時をかさねて ひとつずつわからなくなって

愛が消えていくのを 夕日に例えてみたりして

そこに確かに残るサウダージ

 

ー『サウダージ』 ポルノグラフィティ

 

 

 

少し体調を崩していました。夏風邪?がお腹にきたようです。もしくは偽装鶏肉を食べたせいかもしれません。ちょうど前後に心当たりがあるのです。仕事場を1時間おきに上司に交替してもらって、トイレにいっている状態でした。このブログを読んでくださっている方がいたとしたら、体調など崩されていませんでしょうか。偽装鶏肉の被害にあわれていませんか。心配です。

 

空気を『見える化』したい

例えば誰かと話していて、相手の表情とか、仕草だとか、そういうことから相手の気持ちを推測することはまあ出来ないことではありません。『あ、今の言葉ちょっと気に障ったかな?』とか。『今日は機嫌が悪いみたいだなあ。』とか。いわゆる空気を読む、ということ。

空気を読めないと、今のご時世、『KY!KY!』ってワルクチ言われちゃうのですが、確かに空気を読むのは社会生活を営んでいく上で重要なことだとは思うのですけれど、世の中には、相手の感情を読み取ることが不得手な人もたくさんいる訳です。だから私は、『空気を読め!』ということばかり求めるのではなく、もっと『相手が察せられるようなわかりやすい言動をしよう』ということを強調してゆきたいのです。

 だって、自分の気持ちというものは、頑張って伝えようとしても10あったとして3も伝わらないものなのだと思うのです。自分では結構『怒り』とか『悲しみ』とか前面に押し出していても、結構案外、相手には全然伝わっていません。だから『私のまばたきが多くなってるんだから、私が怒ってることを察してよ』なんていうわかりにくい表現では全然足りなくって、もっと、こう、会話って言葉のキャッチボールと例えられるくらいなのですから、『相手が読んでくれる』ようなボールを投げるのが優しさというものではないだろうかと思うのです。だって、そうでもしないと、会話が苦手な、野球でいうところの甲子園初戦敗退レベルの選手たちが、いきなり大リーグレベルのボールをずばっと投げられて、思わず見逃したら『ほら、もっとバット振ってこ!』とばかりに、『ほら、もっと会話に混ざってこ!』なんていわれても、喋ることなんてできないと思うのです。え、早すぎて、みえなーい。

 

コトバにできない♪

コミュ障という言葉を最近よく耳にしますが、とっても軽くって、まるでコミュ障がスニッチであるかのように、浮くように『私ってコミュ障だから』なんてセリフが飛び交っていますけれど、こんな風に重い言葉を軽く言うちょっとしたコトバ遊びって割と楽しくって、私も箒に乗って、華麗にスニッチを掴むように、『私もコミュ障です!』って言っております。それは嘘で、本当は、恥ずかしいので言ってはおらず、心で思うくらいです。

けれど実際のところ『私は人と接するのが得意です!』って自信を持って言える人はひと握りしかいなくって、きっとみんな多かれ少なかれ苦労や努力をしているものなんだと思います。たぶん、『私は人と接するのが得意です!』なんてセリフは就活の面接でしか聞けないセリフ。話がとても上手だと感じる人でも、聞くと『自分が会話が得意なんて思ったことない、むしろ苦手なほう』とみんな口をそろえて言います。多少謙遜はあるのでしょうが、話がうまい人はうまい人で結構努力していることもあるみたいで、コミュ障を免罪符に逃げてばかりではなく自分も努力しないとなあと思うのでした。

 コミュ障といってもいろんなパターンがあるかと思います。

その中でも私は『自分の気持ちを言葉にするのが苦手なタイプのコミュ障』だと考えております。言いたいことや感情は心の中にあるのですけど、ぼんやりした雲のように実態が自分でも把握できていなくって、うまく切り出して彫刻にできていない未完成の丸太のようなものが心のなかにズドンとあるような感じです。ゆっくりかけて、丁寧に切り出していけば、その形がだんだん形をあらわしてくれるのですが、いかんせんそこまでにとっても時間がかかるのです。なので、ブログみたいに文章にすると、言葉もゆっくり選べるし、遠回しな比喩表現を織り交ぜたりしながら、名づけることができない形のない感情も、ある程度その輪郭を浮き上がらせることができます。文章なら何度も読み返せるので、『あ、この言葉はいらないかな』って、後から消したりできることが可能なところもいいですよね。そういう風に、丁寧に時間をかけて、のみとかやすりとか使って、自分の本当の気持ちを整理できるのが、文章を書くことのいいところですね。

 

頭がいい人ほど単純な英語を使う、というけれど

昔は、言いたいことがうまく言えずに悩んでいました。多感な時期だったので、ひとつ感じた感情を切り出す間もなく新しい感情がうまれて、それらを処理できずに未完成な丸太ばかりズドンズドンと並べられ、心の中が名づけることのできない感情で埋もれていました。私はそれらの感情がなんなのかもわからず、整理できずに置かれているナニカが心を埋め尽くしていることに怯えていました。

相手と会話をしていて『○○』と言われると、自分のなかで確かに何らかの感情や考えは浮かぶのですけれど、それがなんという言葉であるのか把握することができませんでした。自分の気持ちや考えがわからないから、相手に伝えることもできず、会話ができない自分を情けなく思っていました。

けれど、最近になって妙案が浮かびました。それは、あらゆる感情を単純化して、とりあえず『楽しい』か『怒れる』か『悲しい』か、まあ、あるいは便利な『微妙』とか、『イマイチやね』とか、せいぜい5つくらいの単語を言っておくことです。なにかしたり、感じたりしたら、とりあえず『あー楽しかった!』とか、『えー、それは怒れるね』とか、そんな感じで適当にしておいて、家でゆっくり彫刻を掘り出す作業を行うのです。たぶん、私は難しく考えすぎていて、自分の思ったことを1から10まで全部把握して伝えようとしていたのでしょう。だから会話も難しいものだったのですが、使う言葉を単純化したら、会話も楽になりました。会話で使う単語は小学生レベルのものですけれど。

 『ねえねえ、昨日から、えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧えつけている。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうかー酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。*1

とか、こんな感情、生理前の夜には来ることがあって、まさにこの文章は私のそのときの感情を表してくれている文章なのですけれど、とっさにこんな文章がすらすら出る訳もなく、せいぜい、

『なんか、びみょーに、心がざわつく感じなんよね。』

くらいしか言えない訳です。けれど、そんなの当たり前のお話で、著名な作家が何度も何度も繰り返し考えて、ああでもないこうでもないと推敲した文章が、会話の1秒のなかで出てくるはずがありませんよね。なので、もう、バカな子と思われても仕方ないと諦め、会話であまり難しいことは言わないようにしました。家でゆっくり考えて、ある程度答えが出たらまた話すようにしました。なので、会話が日にち単位のスローペースで進んでいきます。

ところで、梶井基次郎は、どうも、ここまで、生理前のざわつく気持ちをここまで言葉で表現できたのでしょうかね。男の子の日でもあったのでしょうか。大変興味深いところです。

 

1を聞いて10を知る、は良くない

『ひとつずつあなたを知っていって』そして『ひとつずつわからなくなって』いく男女関係、なんとなく、これがその気持ちなのだとすれば、わからなくもない感覚ではあります。けど、そうだとすれば、これってたぶん、相手の事をひとつずつ知っていっていたつもりが、『1を聞いて10を知る』状態になっていたんじゃないかと思うのです。相手のセリフでも、仕草でも、何でも、たとえば身に着けているアクセサリーだったり、携帯カバーだったりから、『この子はこんな人間なんだろうな』って推測して、ある意味自分の思い込みで、無意識に相手の性格やら人となりを『作り上げている』状態。たぶんそれって過去の自分の経験からきていて、『コーヒーをブラックで飲む女性はS』みたいな自己流の判断基準を使っていると思うんです。もちろん、実際はもっと信憑性の高い自分の基準を使ってですけれど。付き合っている相手ならなおさら、たくさん情報が入ってきて、しかも『あばたもえくぼ』状態なので、かなり実際とは歪められた捉え方でもって相手の事をイメージしているのだと思います。

これがだんだん冷静になってきて、ある程度客観的に相手を見られるようになってきて、あばたはあばただときちんと見えるようになってくると、『あれ?この子ってこんな人だったっけ?』という部分がどんどん増えていきます。そうなってくると、自分で作り上げていた相手像が、どんどん崩されていって、ひとつ、またひとつと、相手の事がわからなくなっていってしまうのです。わからなくなってく、というより、初めから『無いものをあると思い込んでいた』もしくは『あるものが見えていなかった』ので、真実がみえてくるという言葉が正しいのかもしれません。

 

私は人間関係において『1を聞いて10を知る』のは、勉強や仕事で使われるようないい意味ではなくって、とても怖いことなのではないかと思うのです。ひとりとして同じ人間はいないのですから、たとえ同じものを好きだという2人がいたとしても、それぞれ好き度合は違うでしょうし、その対象に対する考えも違うでしょう。だとしたら、ひとくくりにすることは不可能でしょうし、『○○が好きなら××』のような画一的な法則は作り出せないはずです。

アイスが好きな人がいたとしても、ハーゲンダッツ以外食べない超高級派かもしれませんし、チョコミントは食べられない人かもしれません。たとえ手に糸の跡があってもその人は外科医とは限りませんし、ワイシャツのしわがないからといって既婚者とは限りません。コナンやホームズは実際にはいないのです。いたらすごく素敵ですし、とっても、居て欲しいのですけれど。

 

だから、相手の言葉や仕草からなんとなく『楽しんでいるか』『怒っているか』くらいの推測はしても、それ以上の事を想像するのは少し危険じゃないかな、と思うわけです。もしかして、怒っているようにみえても眠いだけかもしれませんし、楽しくないのに楽しそうにしている人なんていくらでもいます。コトバにできない人も、きっと私だけじゃなくて他にもたくさんいて、『楽しい』と言っていても本当に楽しんでいるか怪しいですし、強がっているだけかもしれません。相手の事を完全に理解することなんて不可能だと、多くの人が、言葉をかえ時代を超え、繰り返し言っています。それと同じように、会話の空気を完璧に読むことなんてできっこないと思うのです。

 

『だからこそ、複雑怪奇な自分の感情を、あえて単純な分類に放り投げてとりあえず分かりやすく発信し、それを受け取る相手が確実にそれだけをキャッチできるような、そんなコミュニケーションを提唱したいのです。』

 

嘘です。そんなことは、思っていませんが、まとまりがなくなってしまったので、とりあえず全部をひっくるめて縄で縛りました。縄をほどけばぴょんぴょん飛び回ります。そのくらい、まとまりがないです。

けれど、確かに、単純な分かり易いコミュニケーション方法は、ある意味理想だとは思います。変な誤解を生むこともないですし、すれ違いも起きません。でも、言葉にできない感情に振り回されるのが人間というものです。思わず口にしてはいけないことを言っては後悔し、なのに言いたい気持ちはどうしても口にする勇気が出ない。気まぐれに感情で動いてみたり、趣味じゃないことを始めてみたり、趣味をやめてみたり、桐島くんは部活をやめてみたり、そんな風にひっかき回したいから、やっぱり、いつまでたっても空気は見える化しないし、いつまでたっても私は小説の一文のように自分の感情を表したくって言葉を探して会話に詰まります。

 



あなたが必死で読もうとしている場の空気、その回答に正しい答えはあるのですか?

アイツは空気が読めないと笑っているあなた、あなたが読めていると思っている空気は自分で作り上げた幻想ではありませんか?


*1:梶井基次郎『檸檬』一部改変