世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

CとUのあいだ

病院というのは奇妙な空間だ。

 

患者さんの満足度向上のためにまずは心地よい空間を提供します。とかいって夏は寒く冬は暑い。夏はクーラーががんがんに効いていて冬はこってりと暖房で温めている。もちろん病院に長居しない患者さんにとっては快適なのだが病院で働く職員にとっては不都合なことも多い。まず体調を崩しやすくなる。あと日本の四季という素晴らしい特徴を実感できなくなる。季節感なんてかなりなくて、病院には屋根があるから雨が降っているとか台風が上陸していて猛烈な風が吹いているとかそんなことも一切わからなくて、『今日は暑かったですねえ』と言われてもかなりぴんと来ないし台風がやってきて去るまでの一連の流れにまったく気づくことなく終わることもかなりある。だから2014年の夏が果たして例年よりかなり暑かったのか、はたまたかなり冷夏だったのかかなり全然知らない。そして『今年は猛暑でした!』と言われてもかなり実感もないし、今年はいくつのかなり台風がこの町の上をかなり通り過ぎて行ったのかもかなり知らないかなり。

そうではあるんですけど、それも言いたいことなんですけど、確かに困っているといえば困っているしでも、暑い夏が嫌いな私にとっては快適といえないこともないし本当に言いたいのは季節感がないとかそういうことではなくて病院という空間は非日常が日常になっている奇妙な空間なんです、ということだ。

 

病院という空間は非日常が日常になっている、長い文章に埋もれてしまったのでもう一度書くと、『病院という空間は非日常が日常になっている』。

病院という空間は、非日常が日常になっている奇妙な空間だ、と思う。

病院は『死』がとても近いところにある。死、は普通に生活していて日常的なものではないし、日常的なものであるべきではない。私はそう思う。死が特殊なものであるからこそ、私たちは死を健全に恐れることができるし、生に執着することができるのだと思っている。しかし病院には『死』があふれている。あふれているからそれが日常的であるし、日常的でなくてはいけない、とも思う。なぜ死が日常的でなくてはいけないかというと、病院という場所は患者を『生』に向かわす目的をもっているからだ。生に向かわす、ということは言い換えれば殺してはいけないということだ。すべての医者は、おそらく、意識的に、あるいは無意識的にかもしれないけれど、目の前の患者を『殺してはいけない』と常に考えて治療をしていると思う。患者を『助けよう』の前に『殺してはいけない』が先にくる。不思議と思うかもしれないけれど、助けるためにはまずは殺してはいけない、なぜこんな考えになるかというと、医者は患者を殺すことのできる場所と道具を合法的に持っているからだ。持っているし実際にそれを使っている。病院で普通に処方される薬やメスといった道具、どの薬にも多かれ少なかれ、重大かそうでないかにせよ副作用があるし、メスはお分かりの通り使い方によってはあっという間に凶器に変わる。副作用で人は死ぬしメスの誤った操作で人は死ぬ。『100%副作用のない薬』は存在しないし『100%安全なメス』は存在しない。もはやそれは薬ではないし、メスではない。薬は作用があって効果があるから『薬』なのであるし、メスはよく切れるから『メス』としての役割を果たせているのだ。あるいは、あってはならないことだけれど、医者の『言葉』でも患者を殺してしまうかもしれない。

こんな風に、医者は自分の使った道具、下した判断で常に目の前の患者を殺してしまう可能性を持っている。どの医者だって、自分の手で目の前の患者を殺したくなんてない。助けたい、と思っているはずだ。けれど、その助ける行動の裏に殺してしまう可能性をはらんでいる以上、常に死を意識せざるを得ない。意識的にか、無意識的にかは別にしても。

こんなこと最初はとても疲れてしまう。常に死を意識して、いつも『この判断で患者を殺してしまうかもしれない』なんて考えながら治療にあたっていたら精神が持たない。しかし人間というのはよくできているもので、どんなことにもいずれ『慣れて』いく。辛いことも悲しいことも、何度も何度も繰り返していくと自然と気づかぬうちに慣れていくものだ。だんだんと『この判断で患者を殺してしまうかもしれない』と考えることに慣れてくる。常に死を意識することに、慣れてくる。死を日常的に感じる。病院というのは、奇妙な空間だなあと思う。

 

死、に慣れることはいいことか。私は、いいことではないと思う。最初のほうにも書いたけれど、死が特殊なものであるからこそ、私たちは死を健全に恐れることができるし、生に執着することができるのだと思っている。そういう風に思う。

人が死ぬことに慣れて、死を恐れなくなるのは、とても怖い。死を恐れるがゆえに、患者を殺してはいけない、と思える。だから慎重に治療ができる。死を畏れるから、命を大切に思える。ひとつの命の『生』と『死』のゆくえを見守る患者の家族に対しても、優しくなれるし共感できる。丁寧な対応ができる。では死を恐れなくなったらどうなるか、そう、そうなったらこれと逆のことが起きるだろう。

死ぬことを意識しすぎて、不健全なくらい死を恐れてしまうことも、とても怖い。この考えは逆説的だけれどゆくゆくは自分を殺す。ひとはいつか死ぬ、これはずっとずっと昔から普遍的な事実であり、これからもずっとそうであるだろう。ひとはいつか死ぬ、とても怖い、毎日毎日考えすぎると、そのうち生きている意味を見出そうとする。自分はいつか死ぬのになんで生きているのか。なんのために頑張っているのか。恐怖に立ち向かうことができるだけの強く明確な理由が欲しくなる。けれど死への恐怖のなかで生きている意味を見出すのは難しい。そもそも健全な状態であっても、生きている意味、誰もが納得のいく明確な意味なんてないのだからさらに難しくなる。患者の死へ立ち向かう前に、自分の死への恐怖に心を折られる。もしくは死への恐怖を忘れるために自暴自棄になる。このどちらになっても、それは自分を殺すことになる。肉体的に、あるいは、精神的に。

 

死は、特別なものであるからいい。命はとても大事、そう思えるのは死がありふれていないからだ。誰にでも死はやってくる、それがどんな形であるかはわからないけれど。人は100%死ぬ生き物だ。死から離れた日常生活の中で、非日常的に人が死ぬ。そうして人は死ぬことを思い出す。そしていずれ自分も死ぬのだからきちんと生きなければなあと思い直す。あの人もいずれ死ぬのだから大切にしなければなあと考え直す。そのくらいでいい。死はそのくらいのものでいい。そういう風に思う。

 

病院というのは奇妙な空間だ。

死がありふれている。その不健全ともいえる空間の中で、死を健全に恐れ、死を特殊なものだと思わなければならない。少なくとも、私は、そう思いたい。死に慣れるでもなく、怖がりすぎるでもなく、そのあいだの『そのくらいのもの』だと思いたい。すごく揺れている。私はまだ、上へいったり下へ行ったり、安定してあいだにいることができず、すごく揺れている。いずれ、慣れなければいけない。そうしなければ精神がもたない。慣れなければ仕事にならない。そうか、慣れる、という言葉がいけないのかもしれない。なんとなく慣れるというのは、軽視する、というニュアンスを感じさせるからいけない。軽視するでなく、慣れる。慣れることと、死を恐れなくなることは、別だと考えよう。死に慣れて、死を正しく恐れ、死を怖がりすぎないように。あいだを漂っていけるようになりたい。そういう風に思う。