世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

心の拠り所(メモ書き)

たぶん誰にでも『心の拠り所』となるモノがあるんじゃないかなと思う。スタートラインに立ったときに『これを心の拠り所にしよう』とするモノがあるのではなくて、その『心の拠り所』は自分の気づかないうちに自分の心の土台に埋め込まれていて、あるいはどんどん上へ上へ突き進んでゆくことをタワーに例えるならそれが倒れそうになったときに無意識にSOSを呼んでいる工事屋さんのようなもので、その工事屋さんはタワーが崩れそうになるのをそっと支えてくれてタワーがまっすぐに上へ上へ伸びてゆけるように右に傾いていたら左へ左に傾いていたら右へというように方向修正をしてくれる。

そんな『心の拠り所』は普段は意識していなくて『心の拠り所』を維持するために自分がSOSを発していることさえ気づいていなくって、『なんとなくあの子とご飯に行きたい』と思ってご飯に誘ったことを後から振り返ってみたら『そういえばあの時私はSOSを発していたんだ』とそこで気づく。ここでいうSOSはちいさなSOSで信号で例えるなら黄色信号くらい、無視していてもオオゴトにはならないし基本的に安全ではあるけれどずっと無視し続けていたら大事故を起こす可能性がある黄色信号くらい、そんなものだ。

『心の拠り所』は常に意識しているものではないので普段は無意識下にある。それがわかる時のひとつの場合として、ソレを無くしたとき。無くして初めて分かるありがたさ、なんていうのはあまりにありふれた言葉であるから重い言葉として考えていなかったけれど無くしたときにあるいは無くしそうだという予感をしたときに、これが心の拠り所だったのかと気づく。もうひとつの場合として、ソレを手に入れた途端もしくはソレが意識上に上がってきたときに異常なハイ状態になるとき。そうなるとこれが心の拠り所だったのかと気づく。この拠り所さえあればなんだってできると思えるけれどこれは非常に諸刃の剣で無くなると土台から崩れてゆくので『心の拠り所』は永久に不変のものがよい。でも永久に不変じゃないモノのほうが魅力的だったりするから怖いよねという話。

『心の拠り所』は多ければ多いほうが自分の身を守るためには安全だけれど人間にはキャパシティがあってそれを超えるものは処理できないから『心の拠り所』が多くなるとひとつひとつが薄いものとなる。濃いものとしようとすると『心の拠り所』は少ない方がよいけれどそうなると無くしたときのショックも大きくなる。

『心の拠り所』は自分のなかにいくつあるのかよくわからない、きっと無意識的に思っているだけのものなので数えることができない。たぶん、何個かあるんだろう。ソレを無くすとき、あるいはソレを手に入れてハイになった自分がいたときに気づく、それ以外に『心の拠り所』を見つける方法をわたしはまだ見つけていない。