世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

グッドバイ・世界

グッドバイ世界から知ることもできない

不確かな未来へ舵を切る

 

グッドバイ世界には見ることもできない

不確かな果実の皮を剥く

 

 ーサカナクション『グッドバイ』

 

 

1月のある日、Facebookを開いたら、お知らせマークが点灯していた。誰かからのメッセージがあったか、誰かの誕生日だったか。いつものようにそれを開くと

『今日は●●の誕生日です。お祝いしましょう。』

その名前は、あの、自殺した友人の名前だった。

すとん、と、何か浅いところに心が不時着したように、ゴルフボールが、バンカーに落ちるようにすとん、と、頭が一瞬真っ白になった。

彼がいなくなった後も、どうやらFacebookは削除されていなかったらしい、残酷なまでにきっちりと、データは歳を刻んでいた、ご丁寧にそれを彼の友人みんなに報告してくれていた。もう歳を取らなくなってしまった現実の彼とは違って。着実に歳をとっていく私たちを置いて彼は遠くへ行ってしまった。いや、それは逆で、置いていっているのは私たちの方で、徐々に徐々に、私たちは彼から遠ざかっていくのだ、これから先、ずっと生きていく限り、ずっと。この距離は離れてゆく一方で、長い長い道の途中、幼く寂しそうな顔でずっと立ち止まったまま離れていく私たちをみつめている彼を想像してしまって、悲しくなった。まだそれほど時間は経っていないように感じるけれど、もう1年半、だ。成長していかない、変わっていくことのない、というのはこんなにも切ないことなのだと初めて知った。私たちは変わっていないようで、変わっていっているんだ、身体の成長、こころの変化、危うい関係性。

 

バンカーはさらさらの砂、もがいてももがいても出られない蟻地獄のような、さらさらの砂。

 『元気?』私はメールを送った。

 

ーーーー

4年前だったか、5年前だったか、今でも一番親しいと思っている親友から

『次の誕生日に死のうと思ってる。それが支えで、今は頑張れている。』

とメールが来たことがあった。

その頃は自分にも心の余裕がなく、金銭的にも余裕がなくて、遠く離れた彼女に会いにいくことができなかった。長文のメールを返信することしか出来なかった。彼女はとても繊細で脆い、複雑な生い立ちと彼女の才能があいまって、すごく大きな闇を背負っているような子だった。必然ともいうべき道をたどっていってしまっていて、たまに共通の友人から彼女に関する話を聞くことしかできなくて、私はやり切れない気持ちでいた。

なんで私は近くにいないんだろう。

かいつまんで話されたハイライトの情報では、彼女の心情を理解するのは困難だった。ただでさえ一緒にいたって相手の心なんてわからないのに、話を聞いただけで彼女の心を推し量るのは難しいことだった。ましてや彼女は弱音を吐かないし、いつだって強がっていて本当のことを言わない、人一倍寂しがり屋で誰かに理解されたがっていて、なのに自分の気持ちなんてわからせるもんか、そんな風に思えるくらい強気な子だった、今でもそうだけれど。

何があって、その考えに至ったのか、そのプロセスを知りたかった。助けの手を差し伸べるためには、情報が必要だった、彼女が求めている的確な答えはなんだろう。

 

結局、その後彼女は病院や(私の知らない誰か)に助けられて、どん底の時期を乗り越えて、今でも生きている。あの時有効と思えることが何も出来なかった私は、今でもそのことがしこりとして心に残っている。

Facebookでの誕生日事件があってから、彼女とのそんな想い出を思い出して、『元気?』と私は彼女にメールを送った。すぐに返信がきた、メールを見る限りの彼女は元気そうだった、そうだろう、つい先日会ったばかりなのだから知っている。

 

『あの時はそうするしかないと思ってたよ』

と彼女は自分が一番辛かった時のことを話してくれた。

『がんばるよ』

『どんなに死にたくても』

『ここまで生きてきたから』

『あの時ふんばった自分がかわいそうだなと思って。死んだら。』

私は自分のために、彼女には生きていてもらわないと困る、もう二度とあんな形で友人を失うのはごめんだから。だからよかった、少し安心した、過去の彼女が、今と未来の彼女を支えているようだった。まだ、彼女と私の時間は、たくさんあるようだ、まだ一緒に歩いて行ける、それって本当に、本当に、素晴らしいことなんだ。

 

自殺した友人は、生前、親に『自分には友達がいない』と常々言っていたらしい。

それを彼の実家にお線香をあげにいって、両親から聞いたとき、何とも悔しくてやり切れない気持ちになった、彼にはじめてバカヤロー!と叫びたくなった。友達だと思っていた私の気持ちは、どうやら一歩通行だったらしい。それ以来、まるで中学生の女の子同士のように、『私のこと友達って思ってくれている?』と聞く癖がついてしまった、バカみたいだと自分でも分かっている、そしてその返答として『友達だと思っているに決まっているじゃん』と笑って返されるそれが本当の気持ちじゃないかもしれないことだとも分かっている、それでも、発した言葉は事実として私の心に残る。そのための自己満足だ。

今思えば、バカヤローと叫びたかったのは、自分に向けてだったのかもしれない、そうだ、半分以上は、そんな気がしている。友達だと思っていたのに、何も出来なかった自分への怒りだった、私は友達失格だった、のかもしれない。友達だよね?うん友達だよ、というのはてっとり早く、そして最も愚かな友達の確認方法のひとつだろうな、とぼんやり思う。何をしたら友達なのか、どうしたら友達じゃないのか、よくわからないけれど、あまり深く考えてもいい事がないよ、友達だと言われて嫌に思う人はそういないから、と以前誰かに言われた言葉を、私はそれ以来頼りにしている。『トモダチ』は人を分類するときの識別記号で、たぶん基準は主観的で自分にあるだろうから、まあ、多めに使っても悪いことはないんじゃないかな、と思っている。

 

”完璧に分かり合える事なんて一生出来ない、って分かってたからサヨナラしたのかも”

 

私は彼女に、例の友人の一連の出来事について話していた。同時に、彼女が生きていることは私にとってとても大切で、重要な意味を持つのだと。

『最終的に、友達がいない、という気持ちが勝ってしまったのかもしれないけど、きっと、あかめのこと友達だと思ってた時間もあると思う』

『どっちかひとつの気持ちしかないなんてことはないんじゃないかな』

彼女は優しい。ひとの気持ちのグレーの部分を、曖昧に丁寧になぞってくれる。

ああ、そうだといいな。うん、ほんとうに、そうだったらいいなと思うよ。

例え物理的に近くにいなかったとしても、言葉だったり、想い出だったり、そんな目に見えないようなものでも、それは人に影響を与えることがある。そんなことは、多々、ある。私と彼女をつなぐ見えない糸は、長い距離をまたいでいるけれど、しっかりつながっているのが、今ははっきりと分かる、たまにぼやけて見えなくなるからその時には確認をする。そして、それはもう存在しないひととだってつながることの出来る、見えない糸であって、天国にいる彼とはもっと長い途方もない長い距離をまたいでいるけれど、きっとしっかりつながっている。彼はたまにその糸を引っ張っていたずらをするので、私は気づく、つながっていることを。

天国にいる彼は、今でも私を救ってくれている。私にも、私の周りをつなぐ糸にも影響を与えている。そういう形で一緒に歩いていこう。

 

 

どうだろう 僕にはみることができない

ありふれた幸せいくつあるだろう

 

どうだろう 僕らが知ることのできない

ありふれた別れもいくつあるだろう

 

グッドバイ 世界から何を歌うんだろう

グッドバイ 世界 世界 世界・・・