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世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

気持ちのカタチ、言葉のカタチ

最近、言葉の意味を考えることが多くなったように思うのです。

正確にいうと、自分の中でのその言葉の定義、というか、解釈のようなもの。

『水』と言ったらそれはH2Oの化学式で表わされる物質のもので、疑いようのないもので、世界中どこにいっても、もちろん日本でもガーナでもベルギーでも(咄嗟に出てきた国はなんかチョコレートの香りがする国、バレンタインが近いからかな)、北極でも南極でも火星でも、水=H2Oなんですけど、私が言いたいのはそういった類の言葉ではなく、前回の『親切にするということ』だったり、たとえば『生きるということ』だったり、『正義とはなにか』だったり、『私はシャルリー』なのか『私はシャルリ―ではない』のかであったり、そういった漠然とした、全人類で統一された解釈がされていないような『言葉』の意味です。

なんでこんなこと考えてしまうんだろうな、と少し考えると、このズイショさんのエントリ『お前は俺ちゃうんかい - ←ズイショ→』が、ぽわんぽわんと頭に浮かんできました。

 

関係ないですけど、ズイショさんは最近ほっぽりぎみのTwitterに気まぐれになにか書き込むとハイタッチしてくれるので嬉しいです。ズイショさんの文章ってホント独特で、最初は『なんだこれは』って感じで読み始めてたんですけど、テンポの良さによって一文がどれだけ長くてもしっくり頭に入ってくるような滑るような文章で、ああ一言で言い表せられない事って実はたくさんの単語とあらゆる比喩表現を使ったらここまではっきりとした輪郭を浮かび上がらせることができるんだと感動しながら読み進めて、白黒つけないグレーな感じの話題をひっぱって引っ張ってあの手この手で品替え言葉替え、ひとつのテーマについて繰り返すことで、繰り返し繰り返ししつこく言い方を替えて書くことで、すごく強い印象を読み手に残してくれると思うんですよ。そしてズイショさんの文章を読むスピードで自分の疲れ具合を判定する、みたいな試みもされてたりして、すごいなあと思うわけです。なんていうのかなあ、ここでこの言葉が欲しい、という読み手の希望に合わせて文章が用意されているような感覚です。すごいなあ。ズイショさんの文章はピクセル数の多い画像みたいな感じです。細かくて明るくて鮮やかに言いたいことの伝わる文章。言葉が思うがままに操られているのが感じられます、言葉って使いこなすことができればこんな便利なものなんだ。たいして私はというと、きっとイラストロジック程度なんだろうな、って思います。四角いマス目がみえちゃう文章、遠くから見ればまあ形がわかるかな、くらいのイラストロジック並みの文章です。たまにマス目ずれて塗られているから絵が不完全だったりもする。言葉が自由に動いてくれない。話がそれそうなのでこの話は置いとくんですけど、せっかくなので私が好きなズイショさんのエントリを紹介したいと思います。『ブログを書き続けるためにはうんたらみたいな話します。 - ←ズイショ→』 私がこの話のなかで一番好きなところは、二年という数字を指折り数えるのではなく、大胆にも肘折り数えることで、思わず『頑張るぞ』のポーズになってしまうところなんですけど、白のタートルネックを着てみたらすごい可愛いポーズしてるんじゃないか、というところなんですけど、たぶん、こんな説明だけじゃなんのこっちゃわからないし面白さも伝わらないと思いますので気になった方はぜひ読んでみてください。

 

で、書こうと思ってたことは『お前は俺ちゃうんかい』の話なんですけど、この『お前は俺ちゃうんかい』っていうのは、結局のところ自分と他人は違うものだっていうひどく当たり前のようなことなんですけど、文章で読んだら当たり前のようでも実際そういった場に置かれると分からなくなることってあって、『なんでこの気持ちが伝わらないんだろう』って思う、同じことをしても捉える人が違えば感じ方も違うっていう当たり前の事、生活してると忘れがち。同じ映画を観ても、泣く人もいれば、感動すらしないひともいる。自分の感情に自信があればあるほど、『この映画見ても感動しなかったの?』とか『絶対おすすめの音楽だから!』とか、そういった発言をしがちになるけれど、あるひとつの事象に対して人それぞれ違う感情を持つのは不思議なことでは全然なくって当たり前、お前は俺ちゃうから。だから、私がベイマックスをみて2回号泣しても、隣に座っているこのひとは冷静にポップコーンにいっぱいキャラメルがついているものを選んで食べているほど無表情なことも、全然、不思議じゃなかった、でも不思議って思ってしまった、こんなにもお前は俺ちゃうんかい!って思う瞬間、大人になった今でもいっぱいあって不思議と思う。

で、とは言っても、この、自分が感じた感情を誰かと共有したいっていう気持ちは少なからずあって、絶対に理解しあうなんて不可能だから最初から諦める、なんてこと(はたまにしてしまって、孤独を感じたり寂しい思いをしたり、自暴自棄な気持ちが生まれることもあるけれど)それでも理解しあうことはできないのなら、せめて同じ風景をみていたい同じものを食べて同じ音楽を聴いて同じ時間を共有したい、と思うのです。その、何とか自分の思っていることを、この、今自分が感じている感情を、他人に分かってもらうことができないのだろうか、と遠い遠い私たちのご先祖様たちが考え出したツールのひとつが『言葉』であって、その言葉には『水』や『親切』なんてものがあって同じように頭の中の『単語ボックス』に詰め込まれているんですけど、この『水』と『親切』では使用方法の難易度が全然違っていて、水っていうのはだいたい目で見ればわかるし、においや味でほぼ水だとわかるし、『ここで水っていう言葉使っていいのかなあ』と悩むことはあまり経験したことないんですけど、『あの人って親切だよね』っていう文章となると、途端にいろんなファクターが絡み合って、『いや、親切というより、あの人はただの自己満足だよ』みたいな論争が生まれて、『親切なんて所詮自己満足だ』というひとがいて、『あの人の親切はおせっかいだ』ていうひともいて、じゃあ、結局、親切ってなんなんだろう?、ってなるのです。私が思っていた『親切』と、相手が思っている『親切』って、なんか違うんじゃないか?って、なるのです。道端で困っているようなひとを見かけて、手を差し伸べてみたりして、自分は『親切にした』と思っても、相手は本当のところは一人で頑張りたかったのかもしれないし、どうせ手助けしてくれるならもっとやって欲しかったという欲求の高いひとだったかもしれないし、そうなってくると『自分が思っている親切って、もしかしたら他人は親切だと思っていないんじゃないか』という疑念が生まれて、その定義とか解釈とか、そういったものを考えてしまうのかなあと思うのです。お前は俺ちゃう、と気づいてしまったその時から、自分と相手との距離が一気に離れてしまうように感じ、これまで共有できたと信じていた感情はもしかしたら自分の思い込みだったのかもしれないと疑心暗鬼になり、お前の『親切』と俺の『親切』って一緒の形してる?って、言いたくなるのかなあというのが、最近の自分がやたら言葉の定義とか解釈に思いを巡らせてしまうのかを考えた自己分析の結果です。

別に、その『親切』という言葉が自分と相手で全く同じである必要はないと思うんです。ただ相手の『親切』はどんな形をしているのか、どんな色どんな手触りそれは柔らかいのか固いのか小さいのか大きいのか・・・そんなことが分かっていればなんかちょっと、だいぶ違うんじゃないかなって思う。そんな風に思うのです。

 

本当は、『友達』っていう言葉の解釈、それについて書こうと思ったんですけど、なんか違う話で長くなってしまったのでまたつぎに書こうと思います。あーっと。そうそう、最近ベイマックス観たんですけど、友人の話では『観てよかった、たぶん思っているのとだいぶ違った印象の映画だと思う』という前評判で、そうなんだと思って観たんですけどやはり同じ印象でした、がぜん、ベイマックスが欲しくなりました。私は日々シュールな笑いを求めて生きているといっても過言ではないくらいシュールな場面が好きなんですけれど、ベイマックスは前半そういった笑える場面が多かったように思えて非常に高評価、なんていうのかな、緊迫した場面にロボットの無機質な声、っていうコントラストが絶妙なシュールさをかもしだしてたんじゃないかな、って思います。で、昨日くらいにスタバでベイマックスに似たふんいきを持つタンブラーがバレンタイン仕様で置いてあって、ベイマックスに合わせてデザインしたかどうかは分からないんですけど、ベイマックス欲しいけれど手に入らない、という方はこのタンブラーはどうかなと思います、私も、がぜん、欲しいです。

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スタバホームページより。なんかベイマックスっぽくないですか!