世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

精神科のことを書けないでいる2・希望

精神科のことを書けないでいる。

わたしは何を書きたいんだろう、この心の中にある気持ち、これを言葉にすると何という単語を使って紡ぎだされる文章になるのだろう。

なぜ書くことにたいしてナイーブになってしまうのか、そう、自分の中で上手に咀嚼できていない事柄や、裏付けとなる根拠がはっきりとしていない事柄というのは、えてして伝える相手に誤解を与えてしまいややこしいことになる。そういう気持ちに近い。

 

わたしが精神科の研修にいった病院は県内で最も大きな精神科病院だった。600床以上の大病院だ。精神科病院、つまり、精神科しか扱っていない、とても専門性の高い病院で、いちおう内科も標榜しているけれど、精神病患者さんが発熱するだとか、おなかが痛くなっただとか、そういったことを主にみていた。

そこはそれだけ大きな病院だけあって、救急治療も行っていた。『精神科救急』を行っているのだ。それは例えば、今まさに自殺しようとしている患者さんの保護、何らかの精神科疾患が疑われており、危険な行動をおこしてしまって警察につきそわれて来る患者さんの保護、そんな急性期のことも行っていた。

街にある開業医の一般的な心療内科、精神科などは、わたしも行ったことがあるし、そこでの患者さんをみたこともあるけれど、それを大きくしたバージョンです、というには少し毛色が違うように思う。

 

『精神科はどこか違うのだ、今まで内科や外科で研修してきたノウハウはほとんど使えなかった』

昨日このように書いたけれど、少し言葉足らずだったように思う、この『精神科』というのはわたしが研修をした、この急性期を扱っている病院における精神科という前置きが必要だったように思う。いや、でも、それだけではない、わたしが思っているにはこういうことだけではない、言葉がみつからない、『精神科』という言葉が広すぎるというようには思う、ただ感じるこの違和感はなんなのだろうか。偏見を持ちたくないという気持ちこそが偏見をうんでいるようにも感じる。

これまでも、学生の頃の実習で精神科という科はもちろんまわった。そこでは患者さんとビーズでキーホルダーを作ったり、バレーボールをしたり、レクリエーションや畑仕事を一緒にしたりして過ごした。そのころ別に違和感は感じていなかった。特に精神科の患者さんだからとか、そんなことはあまり意識しなかった、みんな違ってみんないい、その範疇の出来事だった。いや、でも、今でもそう思っているはずなのだけれど、なんだろう、心がうまく言葉にならなくてもどかしい。

 

研修の初日、病院へ行ったらまず事務のおねえさんが『絶対になくさないでくださいね』といって、鍵を3本、わたしにくれた。それはこの病院にある、あらゆるドアにかけられている鍵を開けるためのものだった。ああ、そうか、そういう病院へ来たのだった、そう思って、大事にポケットへしまった。

病棟にはいろいろな種類があって、まさに今救急車で運ばれてきたといった急性期の患者さんが入院する病棟、少し回復してきた患者さんが入院している病棟、もう少しで退院できそうだけどまだ外でひとりで生活するのは難しそうだねという患者さんが入院している病棟、患者さんの病態段階によっていくつかの病棟にわけられていた。

わたしは研修中だったこともあり、急性期の患者さんが入院している病棟があてられた。その病棟には、2つのドアがあった。ひとつはナースステーションへつながる廊下にあるドア、もうひとつは各々の部屋のドア、そしてそれらはどちらともに鍵がかけられていた。まあそれでも、病状が安定してきた患者さんは、各々のドアの鍵は解放することもあるようだった。

患者さんに会いにいくときには2つの鍵を開けなくてはならなかった。各々の部屋のドアは、分厚い金属製の冷たいドアだった。以前はもっと弱い感じのドアだったそうだが、壊されることが度々あったとかですごく頑丈なものになったらしい。ドアを開けるときは重い、閉めるときにも大きな音がする、ガチャン、と、結構な体重をかけなくては閉まらないドアだった。たまに、わたしがドアを閉めようとするのを自分の身体をすきまに挟んで阻止しようとする患者さんもいた。一般的に、どの科においても、医者は患者さんとの距離をとらなくてはいけないと言われている。近すぎてもいけない、離れすぎてもいけない、と。冷静に治療をしなくてはならないからだ、振り回されてはいけないし、けれど軽く流すわけでもなく、適度な距離感が、必要とされている。毎朝この鍵のついた重いドアを開けるとき、その距離感を感じていた。あたかもその距離感を具現化したようなドアだった。治療にはこのドアの存在が必要なのだ、いろんな意味において。そんな風に感じた。

 

はじめて病棟に行ったときには、多くの視線を感じた。物珍しそうに、わたしの方を見ている。見たことのないひとがいる、という純粋な興味なのだろう。みんながみんなではないけれど、精神科病院は長期入院患者が比較的多い病院である。そういった患者さんは、要は行き場がないのだ、受け入れ先がない、病院ではそれなりに生活を送れるけれど、ひとりで社会の中で生活するのは少し難しい、そんな患者さんがいる。もちろんみんながみんなではないけれども。研修中には、50年の入院生活を経て、ようやく転院が決まったという患者さんがいて、病棟の看護師さんや医者がよかったねえ、と言っていた。わたしが生まれるずっと前、それこそわたしの両親が生まれたか生まれていないかそのくらいのころからずっと、その病院に入院していたのだ。先生は言った、このくらいの大きい病院になると、もはやここがひとつの小さな社会になっている、と。長期入院のため、住所がこの病院になっている患者さんもいるそうだ。

そうか、そうなんだ・・・・とぐるぐる頭をめぐらせながら病棟を歩いていると、なんだか後ろから視線を感じるような気がした。なんだろう、と思ってふと振り返ると、患者さんが数人、わたしのうしろについてきていて、まるで小学校の登校の時みたいに、わたしが班長のようになって列になって病棟の廊下を歩いていた。

病室では、何もない床を一生懸命拭いているひとがいて、自分の病室の床一面にお菓子の包み紙を広げて自分のふるさとの町の地図を作っているひとがいて、わたしに向かってかめはめ波を打ってくるひとがいた。不思議な場所だ、けれど、別になにが違うって、なにも違わない、ただお腹が痛いように、頭が痛いように、ここにいる患者さんは精神(というかおそらく脳内の伝達経路におけるなんらかの異常、ドパミン過剰とかそういうこと)を患っているだけだ。気持ちが悪いから吐く、骨が折れているから腫れる、そういうこと、医学の世界において、結果(症状)にはかならず科学的に説明がつくような原因がある。ただその『結果』が、普段見慣れないものであるから少し驚くだけで、本質的には変わらないことなのだと思う。

 

けれどわたしが病棟内をうろうろしているとき、ナースステーションでカルテを書いているとき、そんなときに感じる動悸は、日に日に強くなっていった。患者さんと話しているあいだ、自分の手が震えていることに気が付いた。緊張ではない、その症状は、はじめよりだんだんと日を追うごとにひどくなっていったからだ。視線が嫌なわけではない、話しかけられるのが嫌なわけではない、けれど、この手が、震える。

『君は精神科は向いていない。周りの影響を受けすぎるからだ。』

ここへ研修へ来る前に、別の科のオーベンから言われた言葉を思い出していた。君は精神科には向いていない。かといって研修しませんというわけにはいかない。わたしは精神科には向いていない。わたしは、精神科には向いていない・・・そうか、そういうことなのだろうか。悔しいけれど、その症状をみる限り、確かにそうかもしれないようだった。向いていないとはなんだろう、精神科医にはなれないということなのか。ひとにはそういった適性とか合う合わないとか、そういったものがあって、もはや努力では変えられない資質、素質のようなものがあって、つまるところわたしにはその適性がないということのようだった。

でも、悔しいけれど、悔しいです、で終わりたくはないのだ。

 

午後は主に、デイサービスでやってくる患者さんと一緒にレクリエーションをして過ごすことが多かった。そこでレクリエーションをしている患者さんは、ひとが多く集まるところで活動できるということだけあって、比較的病状は落ち着いているひとが多かった。患者さんはプラバンでキーホルダーを作ったり、製菓学校の生徒さんが手伝いに来てくれてクリスマスケーキを作ったり、忘年会ではみんなでカラオケ大会をしたり、そういったことをして過ごしていた。わたしはというと、うろうろと患者さんが作業をしているところを見回って、ペンを渡したり、ケーキを配ったり、紅茶を入れたり、おいしいですかと聞きながら自分もケーキを食べさせてもらったりしていた。たまにその作業場で患者さんによるカフェが開かれていることがあって、わたしもそこにお邪魔させてもらったことがあった。カフェの机は、パイプテーブルをつなげて上にテーブルクロスをかけたような簡易的なもので、椅子はパイプ椅子だった。患者さんはエプロンをつけて、水筒に入ったコーヒーをコップにうつす作業をしていた。そして、その紙コップに入ったコーヒーと、エリーゼというお菓子をつけて、わたしのテーブルまで持って運んできてくれた。コーヒーは自動販売機で買うものよりも数倍おいしかった。コーヒーは50円だった。50円玉を手渡すと、エプロンを着た患者さんは、両手で嬉しそうに受け取ってくれた。

『ここで、患者さんは、働く練習をするんです。働くことの大変さと、楽しさを学びます。ここで慣れてくるようになると、次は本当にお金がもらえる作業所などで、働くこともできます。実際に、ここで練習をつんで、いまは作業所で働いている方もいるんですよ。』

カフェにいた作業療法士の方がそう、教えてくれた。そうか、このカフェは、そんな役割を持っていたんだ。コーヒーを持つ私の手は、そのカフェでは、震えることはなかった。急性期、回復期、慢性期。病気にはそれぞれの段階、ステージがある。それぞれのステージで、治療法というのはまた、異なってくる。発症、絶望、否認。情報、正しい情報、錯綜する情報、取捨選択。受容、理解、共感。スタート、やってみようかな、治療、治療、治療、我慢。諦め、未来、その先、未来、希望。希望、そう、希望。どんな病気であっても、治療には希望が必要なのだ。

 

コーヒーのおかげで少しあったまりながら、寒い冬の空を見上げた。12月のその日は、青いけれど、少し曇りがちな空が見えた。

 

こうやって書いてきて、なんとなく、わたしが感じていた『精神科はどこか違う』という気持ちの原因がわかってきたような気がする。

その原因は、たぶん、『責任』だ。

学生の頃といまのわたしでは、感じている『責任』の重さが違う。その責任の重さこそが、わたしが精神科という科、精神科の患者さんをみる目を変えてしまったように思う。特別にみえたのは、やっぱりわたしの側に責任があったのだ。医者として患者さんをみるとき、それは希望をもって接したいし、患者さんにとってもそうだろうと思っている。希望というのは必ずしも『完治』ということだけを指すのではなくって、疾患との共存かもしれないし、現状の維持かもしれないし、延命かもしれないし、その形がどんなものであっても、医療者側と患者側の双方が納得できるような『ビジョン』が必要なのだと思う。そのビジョンこそが希望だ。

その『ビジョン』がみえないこと、それが、わたしの感じていた『違い』の理由のひとつだったように思う。わたしからビジョンを提示することができない、患者さんからもビジョンを聞くことができない。できないから不安になるし、うわべを撫でるだけになってしまう。きっとそのやり方というのはあって、けれどそのやり方というのは、これまで内科や外科で学んできたものとは、どうも違うようだった。アプローチの仕方が違うのだろう、そして提示できる希望の切り札が、わたしには少なすぎた。

あの頃はただ患者さんと一緒にレクリエーションで遊んでいればよかった。話を聞いていればよかった。あの頃はあの頃で、なにかしらの事を考えていたのだろうけれど、立場が変わると考え方も変わるのだ。

なにか違うのではないか、と物事に対して思うとき、そこにはもしかしたら知識不足や経験不足があるのかもしれない。よくわからないものというのはえてして怖いものであるし、特殊だと考えがちだし、だからといって『あれは怖いものだ』と言い張るには根拠が弱すぎるように思う、実際見て、感じて、そうしてよく自分のなかでその物事を咀嚼しなくてはならない、それをせずして、ただ自分と違うというだけで怖いだとか、特殊だとか、そういうことは言ってはいけないように思う。

 

治療に対するビジョン、希望は、医療者側と患者側の双方が納得できるものであることが理想ではあると思うけれど、実際、そう、うまくいくことばかりではないだろう。精神科においては、患者側からの理想を、聞き出せないことも往々にしてあるだろう。

まだ世界を知らない小さな子供は、何がしたいかを言うことができない。せいぜい人間の三大欲求に従って望みをいえるくらいだ。ご飯が食べたい、眠りたい、服を替えてほしい。遊園地を知らない子供は、遊園地へ行きたいということはできない。知らない世界のことは、望みようがない。こちらが子供を遊園地へ連れて行ってあげれば、遊園地という存在を知り、そこは楽しいものだと知ることができ、次からその子供は遊園地へ行きたいという欲求を口にすることができるだろう。

 

50年間、病院の中で生活せざるを得なかったという患者さんを思う。

けれど実際にわたしはその患者さんをみたわけではないし、その50年間がどんなものだったのかはわからない。それにもしいまの社会に出たところで、病院以上の希望があったかといわれると、それは難しいことだったのかもしれない。

自分の病室の床一面に、お菓子の包み紙で自分のふるさとの町を再現している患者さんを思う。これは飛行場で、いまは飛行場はないけれど、いつかつくったらとてもべんりになると思う、と、紙飛行機を滑走路で走らせながら、その患者さんは話してくれた。すごくファンタスティックな発想だ。誰も思いつかないような発想だったり、創造だったりする。正直その部屋は、ひじょうにアートな空間だった。けれどこういったものは、ただカルテ一行に書かれるのみである、毎日、毎日、毎日。仕方のないことなのかもしれない、誰も悪いわけではない、そうするしかない日々、けれど、思ってしまう、何もできないわたしだけれど、このお菓子の包み紙の部屋の先には、なにかの希望があるのだろうか。

 

たった1か月で終わってしまって、患者さんともあまり深くかかわれないでいた。入院しているその先には、いったいなにがあったのだろうか。いったいなにが、あるのだろうか。

そういえば、近くの百貨店の一画に、作業所でつくったクッキーや人形や絵などを売っているスペースがあることを思い出した。いつも、ちらっと横目でみるだけで素通りしていた。 今度そこへ行ってみようと思う、たぶん、これまでとは違った目線で見ることができるのではないかと思っている。