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世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

雑踏を歩きながら

うだるような暑さのなか、という書き出しがよく似合う最近の気候だけれども、朝は暑くなる前に家をでて、陽が沈むくらいに職場を出る毎日を送っているわたしはそれほどうだるような暑さの中に身をおいておらず、今年の夏もそれほど自分のこととして感じないまま8月を迎えたなあ、と思っている。うだるような暑さのなか、という書き出しで文章を書きたかったのだけれど、それに続く話題はわたしの日常生活にはないことに気がついて少しつまらなく思えてしまった。わたしの日常のほとんどは適度にクーラーの効いた居心地のよい空間に存在していて、それが自分の人生そのものを表しているように思えて、夏が少し憎らしく思えた。温室育ちなわたしは苦労知らずという言葉に敏感で、それがウィークポイントだと自覚しているからこそ敏感でただ夏の暑さを回避していることですら辛い事から逃げているようでいやな気持ちになった。それでもきょうはうだるような暑さのなか、ひとごみのなかを歩いてきたので、少しくらい夏を感じられたのかなあと思う。すれ違うひとのなかには浴衣を着ているひともちらほら見かけて、充実した夏生活を送っているようでうらやましくも思った。今日は8月1日、夏真っ盛り、ニュースでは連日猛暑日に関しての話題があふれており、熱中症で何人が病院へ運ばれたかだとか、そういうニュースを聞いて、今日の予想最高気温は36度だとかほとんど人間の平熱くらいの気温まで暑くなるなんてたまったもんじゃないなあ、とかそういう類のニュースを聞いて、どちらかといえば気になるのは今日の救急車は混みそうだとかそういうことだったりする。そしてうだるような暑さのなか、わたしはガンガンにクーラーの効いた極寒の手術室のなかで寒さに足をつりそうになりながら長時間の手術に耐えている。そういう日々を送っている。

 

8年間過ごした愛媛を出て、この4月から久しぶりに名古屋に戻ってきた。名古屋の夏は遠いわたしの記憶にあるとおり変わらず暑く、愛媛と違って雨が多い、雨に関しては雨降りの日数も多いけれど雨粒の落ちてくる量、スピードも多く、愛媛の雨はすごくかわいらしいものだなとしみじみ思っている、名古屋の雨はかなり暴力的だ。

わたしのなかにある名古屋の記憶は、高校時代、名古屋の塾に通っていたころのことだ、友達と見えない将来に不安と希望を抱いてこの名古屋に立っていたんだと思う。こういう形で名古屋に住むことになるなんてそのころはもちろん思っていなかったし、ほんとうは喜ばしいことなのだろうけど、いざ立ってみると充実感だとか達成感だとかそういう類の感情は沸き起こることはなく、空虚感でぽっかり心に穴のあいたわたしがいた、あのころのわたしが今のわたしを見たら何ていうだろう、たぶん、つまらない人間になってしまったと軽蔑するだろう。人間の欲望はきりがなく、ひとつ達成したら次は同じ目標に到達しても同じような達成感は得ることができなくなる。前と同じ、では足りないのだ、もっと欲しい、もっと大きなものが欲しい。たぶん、達成感に飢えているのだ、と思う、走り続けないとつまらない、もう走らなくていいよ歩いていいんだよという周りの言葉が正しいのかそれとも自分の気持ちに素直に従うのがいいのか、迷っている、そしてためらいがちに走りはじめている、この名古屋の地で、疲れない程度にけれど周りからみたら走っているかのように見えるスピードで、走っているんですと自分と周りにアピールしている、それでも猛スピードで走っている昔のわたしが哀れな目でこちらをみるからそれが焦りに変わる、ああ自分には嘘をつけないとはこういうことを言うんだと、そうして何も得られていない自分を情けなく思う、次は何を目指そう、次はどこまで走っていけばいいんだろう、次はどこまでいったら自分は満足できるんだろう。

 

消し忘れ 消し忘れたライト あとどれくらいで 朝が来るのか

眠れない 眠れない夜を すり減らして爪をかんでた

行かないで 見渡して 羽ばたいて 口ずさんで いつか

言わないで 思い出して 羽ばたいて 口ずさんで いつか

 

サカナクションのルーキーをループしながらイヤホンで耳を塞いでうだるように暑い名古屋のひとごみのなかを歩く。気のせいか自分へ向かってくるひとの塊が多いようでぶつからないように避けるのにエネルギーを使う、逆らうことは得意だったはずなのに、8年という歳月はわたしの牙をすり減らしてまるくしてしまったように思う、大人になったのだよと誰かがいうけれど、どうもつまらなく思う、つまらなくしてしまったのは間違いなく自分であるはずなのに、生き易く生きやすくするためにすり減らした牙のはずなのに、その牙で獲れなくなったものに、飢えている。

それでも、楽しく思う日々もあるのだけれど、時たまそういう気持ちに襲われるのだ。明日考えよう、明日考えようとして今日の日にむりやり幕を降ろして夜に逃げ込み、疲れたことを言い訳に今日の荷物を明日のわたしに託す、抱えていかなくてはならない荷物はどんどん増えてゆくばかり。今日の日を大事に過ごす、1日1日を精一杯生きる、という言葉は刹那的に生きろという意味ではないはずだ。積み上げていかなくてはならない、日々を、重ねていかなくてはならない。