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世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

明かりの消えたよるに(空想のこと)

『バチッ』という音とともに、この家じゅうの光が消えたことが分かった。停電が起きたのだ。

夜になったけれど、今日は1日中、朝なのか真昼間なのか分からないようなどんよりとした天気だったらしい。雨がわんわんと泣くように降り続けていた。けれども家の中ではそれほど湿気は感じなかった。台風が近づいていることは分かっていたので、朝から部屋中全ての雨戸が父の手によって閉められていた。バチバチと大粒の雨が雨戸を打ち付ける音がする。家の前にはそれほど大きくない川が流れていて、普段はブラックバスか鯉のような魚が泳いでいるのを見ることができるらしい。川はきっと水位を増しているに違いない。彼らはどうしているのだろうか、流れの穏やかな場所に避難でもしているのだろうか。

わたしは温まり始めたシチューのにおいを感じていた。母が夕飯に作っていたものだった。わたしは今キッチンの傍のダイニングルームに座っている。シチューは母の得意料理だった。この家では何かお祝い事があると、母は決まってシチューを作った。誰かの誕生日や父と母の結婚祝いなど、けれど特に何もない(今日のような)日でも母はシチューを作った。膝の上では猫の『チェス』が、突然暗くなった部屋に驚いて警戒して身体をこわばらせているのが分かる。『チェス』という名前は妹がつけたものだった。初めてチェスが家に来た日、妹は彼が『濃いこげ茶色と駱駝色が斑になって等しい割合をもってしてせめぎあっている』身体を持っているとのことで、チェス盤をイメージしたらしい。チェス盤は固いものだと思うのだけれど、わたしはおかげでチェスというと、この、暖かくてなめらかなものというイメージを持つことになった。

 

『あ、停電』と母は言った。妹はまだバイトから帰ってきていない。父親もまだ仕事から帰ってきていない。家の屋根や雨戸を叩きつけるような雨の音が続いている。わたしはゆっくりと目を開いた、何かから覚醒するように、ゆっくりと目を開いた。

数秒しかない。わたしに残された時間は短い。

目を開いた瞬間、すっと雨の音が小さくなり、シチューのにおいが薄くなってゆくのが分かった。わたしの全神経が、この、視覚というものに注ぎ込まれていた。

わたしはまず母の姿を確認した。わたしが想定していた方向に、きちんと母は存在していた。母の姿を視たのは何年ぶりだろうか。母はけれど、わたしの頭に記憶されている姿と比べてそれほど老けていた訳でもなく、今年の母の誕生日にわたしと妹からプレゼントしたピンク色のエプロンを身にまとっていた。ピンク色は母によく似合っていた、さすが、妹が見立てただけある。妹は昔、わたしに『ピンクという色は、とても、かあさんに似合う色なの。』と教えてくれた。なるほど、わたしもそう思う。シチューの入った鍋をかきまぜていた手を止めた母の視線は、宙を舞っていた。まだ、この暗闇に慣れていないのだろう。

次に、膝の上に乗っている『チェス』を確認した。チェスはわたしの視線に鋭く気が付いたのか、ぱっと目が合い、その瞬間、彼の強ばっていた身体の緊張がふっとほどけて緩むのを感じた。チェスの毛並みは相変わらず美しかった、わたしは『濃いこげ茶色と駱駝色が斑になって等しい割合をもってしてせめぎあっている』身体を滑らすように撫でた。

 テーブルの上には、リンゴが置かれていた、丁寧にうさぎの形に切られている。そして4枚敷かれたランチョンマットの上には、母が最近通い始めたという陶芸教室で作った箸置きが並べられており、その色はイメージしていた色と違っていた。母はこの箸置きのことを『阿寒湖の底に沈んだマリモの主のような色』と言っていた。そうして、だんだんと視界が真っ白になってゆくのを感じた。わたしは長い長い物語の本を閉じるような気持ちで、ゆっくりと目を閉じた。

そして、母が、『少し、目が慣れた気がする。あなた、大丈夫?』と言った。わたしは、『うん、大丈夫。』と答えた。小さな冒険は、これでおしまい。次にやってくるのは、果たしていつのことだろう。

 

 

停電になった瞬間の暗闇のなかでだけはっきりと世界がみえる、目の見えない女の子のお話。特に深い意味はありません。何となく思いついただけ。