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世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

I’m

朝布団から出るのが心苦しいくらいになった寒さのなか、起床時間がいつもより遅くなりつつあるところに冬の気配を感じている。ただ今日はまだ風が強くないせいもあってか暖かく、心も軽くほんのちょっぴりだけれど優しい気持ちになる。

土日の名古屋駅はいつ行っても旅行者で賑わっている。大きなボストンバッグをひきずりながらカップルだったり、女の子3人組だったり、家族だったり、出張中のスーツを着たサラリーマンの軍団だったりが足早に歩いていてぶつかりそうになる。ここは彼らにとっての通過点なのだと感じる。どこへゆくのだろう。何を考えているのだろう。汚れて細かい傷のついた遠目には可愛らしいボストンバッグをひいているスナイデルとかロイヤルパーティーとかそういったブランドらしいピンクフリルのコートを羽織った巻き髪の、口には少し前から流行っているらしい赤の強いグロスをひいた女の子がいる。そういった子を実際にわたしが見たのかどうかは分からないのだけれど、そういった子ばかりがいるように思う、けれどそれはわたしが勝手に想像しているだけで実際にはいないのかもしれないけれど、そういった子ばかりがいるように思う。寒くなってきたのだし本当はもっと暗い色のコートを羽織ってでも足は素足で短いフリフリのスカートを履いてゴスロリを薄くしたようなファッションのまだあまりあか抜けていない印象の成長途中の女の子の方が多いのかもしれない。いずれにしてもここは通過点なのだと感じる。

わたしはいつものようにイヤホンで耳を塞ぎスタバでパソコンに向かっている。今日はこの後髪の毛を切りに行こうと思っている。1年位前のわたしは髪の毛を伸ばしていて、それを切れないでいた。何かを隠すように、そして何かを守るように。いまはその隠していたものは概ね明らかになり世界へ解放されたし、守るものもわたしひとりで守るものではなくなりつつあった。世界という大海へ解放された凝縮された淀みは、息苦しさから逃れて大きく息を吸い始め、確かな鼓動を刻みだし、彼らなりの成長をし始めた。彼らはわたしの所有物なので完全に離れていったりはしないのだけれど、放し飼いの猫のようにじゆうきままに動いているようなのがわたしとしては楽だ。支配というのはぎゅうぎゅうに囲い込むことではなく、必ず帰って来るという確信のもと放し飼いにすることなのかもしれないとぼんやり考える。その方が支配する側も支配される側も楽にやってゆける。

髪の毛は一度、脳外科をやめて神経内科へ転科するのを決めた時くらいに切った。やっぱり、というか、思っていた通り、ショートヘアの方がわたしらしかった。自分から何にかを切り離すときにそれに心を傷めないような血も涙もない人間ではない。でも必要でないのにそれに執着することか、すっぱり切り離してしまいずっとその傷を抱えてゆくことを比べたとき、わたしは後者を選ぶ人間なのだ。傷は目に見えるものであっても、目に見えないものであっても、それを恥じる必要はないし、けれどそれに支配されてもいけないし執着してもいけないと思う。傷はわたし自身なのでもちろん生きていて、勝手に大きくなったり、治ったとおもったら再発することもあるやっかいなものだ。けれどすっぱり切り離した『必要ないもの』は文字通り必要ないものなのであって、わたし自身ではないのであるし、そう考えるとわたしはやはり傷を選ぶのだった。

体重の増減が激しくて、この1年間でも5㎏くらいの振れ幅はあったと思う。激しいダイエットとかはしていないし、したとしても痩せようと思った時には痩せない。特に痩せようと思っていなくても自然に体重が落ちるときがきて、その時にはたいてい食事をあまり摂らなくても平気なのだけれど、だいたい自分で把握していないストレスが裏に隠れていて、ご飯がいらないというのは脳から発せられているアラートで、でもそれが分かっていても、食欲がないのだから仕方ない。もともとジーンズが好きなのだけど、あまりにサイズが変わりすぎるから買うのが躊躇われる。今シーズンも夏にはMサイズだったのが、いまはXSになってしまって困った。あと個人的にジーンズがあまり似合わない顔立ちなのでそのあたりはギャップがあってそれも困る。

 気分が乗った時には、本を読んだり映画をみるのが好きだ。本はブログにもたまに書くように村上春樹は好き(といっても読み始めたのはここ1年くらいのできごとだ)、でも村上春樹は読もうという気持ちが湧くときと湧かない時があって、いつでも読みたいというわけではない。江國香織も好き。でもこれもいつも読みたいという訳ではない。一番好きな作家さんは梨木果歩で、実際にありそうでない世界、みたいな、そういうところにトリップできるような本が好きだ。そのトリップはいつでもできる訳ではなく、こちらの体調や心情や天気とかそういったものがうまく合わされないと上手くトリップ出来ない。現実社会はあまりに現実的過ぎて、ずっといると疲れてしまう。なぜこんなにも現実的なのだろう。何もかもが理屈で説明できる世界、わたしはそれを解明しようと翻弄する、頭が計算を始める、パンドラの箱を開けろと隠れているものはすべて暴けという声が聞こえる。『知らない方が幸せなのだよ』という声はあまり当てにならない。パンドラの箱には希望が入っているのだから、と、あれは神話であってそんな確証などどこにもないのに。あまり深入りしてもいいことはない、他人にも、他人にとってのわたしにも。でもそれは寂しいとも思う。現実的過ぎるものはどこか寂しい。

食べ物にはあまりこだわりがなくって、高い料理を食べるときには絶対にひとりでは食べない。誰かとご飯に行くときはせっかくだから話題のお店とか、誰かがおいしいといっていたお店とかに行ってみたりもするけど、それはあくまで誰かがいるからだ。こだわりがないからコンビニご飯が好きかというと別にそういう訳ではなくって、コンビニご飯はちょっと高めだからおいしいとは思うけれどあまり好んで買ったりはしない。特に予定のない日はちょっとした野菜とお肉とか豆腐とか買って、1品2品作って食べている。食べない時もある。アイスで済ますときもある。でもあまりに食べないと夜お腹がすいて眠れなくなる時があるから、クッキーとかチョコレートとか睡眠薬替わりにストックしている。

 

そろそろ予約の時間になったから髪の毛を切りに行こうと思う。最近のスタバラテはクリームの量が多くなったのか、前よりもおいしく感じる。