世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

想像は、感情の、増幅装置である(かもしれない)。

以前の記事で、『想像することが、世界平和をもたらす(かもしれない)』、みたいなニュアンスのことを書きました。

小学校の時にクラスで飼育していた金魚の水槽の掃除をするときに使う目の細かい網で、苔の浮かんだ水面をつうっと撫でるような、そんな表面上のお話なんですけれど。

自分では、前回の記事は表面上の、キレイゴトのようなお話だなんて思っていないのですけれど(ワタシのid、キレイナセカイですし)、けれど、そう思われても仕方ないような、『想像』ということに関して綺麗な部分だけを掬っているような、そんなお話だったのですけれど。

 

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うわべを撫でる、って、悪い意味に使われがちですけれど、精神的にまいっている時には自分にダメージを与えない手段として使えますよ。汚い部分を見なくてもいいですし、本気でぶつかり合わないから、傷つくことも少ないですし。キレイな世界がみえます。恋愛市場でいうところの、セフレみたいな感じでしょう。うわべだけの関係。けれども、うわべを撫でて、うまく付き合っているつもりだったのに、うっかり本気になってしまったりするように、うわべを撫でているはずが思わぬ拍子に、物事の本質をえぐりだしてしまったりして。

 

まあ、そんなことはさておき、前回は想像によって生まれる『イイコト』を考えてみたのですが、メリットがあればデメリットもあるわけですよね。そういうわけで、今日は想像によって生まれる『ヨクナイコト』を考えてみることにしました。

 

怖い映画を見た後に訪れる、異様な恐怖感

たとえば、『リング』とか『呪怨』とか『着信アリ』とか、そんな映画をみた日って、異様に『恐怖アンテナ』が敏感になったりしませんか?

映画を観る前と、観た後で、せいぜい3時間弱しか経っていないのに、自分の周りの世界が変わってしまうような感覚に陥り、『あれ、自分の部屋ってこんなだったっけ?』と、みるものみるものに違和感を覚えたりします。流し場においてあるコップ、このコップ自分が使ったっけ?床に落ちている雑誌、確かさっき本棚にしまったはずなのに。やけに大きく響く、秒針の音。コチコチコチコチ・・・・

しん、とした静かすぎる部屋で、一度気になると離れない時計の音。

 

そんな時、ふいにトイレに行きたくなったりするんですよね。映画をみている最中に、ジュースをガバガバ飲んでしまうせいでしょう。

ひとりでは怖い、けれどふたりいるとしたらもっと怖い・・。意を決して、トイレに行ったはいいものの、トイレって、こんなに暗かったっけ?便器のふたを開けたら、何かいそう。えいやっと、勇気を持ってふたを開けても、当たり前ですがそこにはなにもおりません。ほっとして便座に座ります。すると、ふいに頭上が気になり始めます。そんなシーンが、映画にあったからです。気になり始めると、本当に何者かがそこにいるような気がして、気配までしだして、いてもたってもいられません。髪の長い女のひとが、うつむいて、宙にうかんでいるような、そんな気がしてしまうのです。

便器の中には誰もいなかったし、髪の長い女の人も宙に浮かんではいなかった、ようやく手を洗って、トイレから出られると思ったのもつかの間、手を洗い終えて顔をあげれば目の前には鏡があることに気がつきます。絶対、後ろに誰かいる・・・・いや、いや、そんなはずなんてない、しっかり鍵をかけているのだから、この部屋には自分しかいないはず。鏡に、自分以外の誰かが映っている、なんて嘘だ。そんなこと、あるはずがない・・。よしと覚悟を決めて、えいと鏡をみると、やっぱり、誰もいません。あーあ、心配しすぎだなあ自分。やれやれ、と、ほっとして振り向くと、そこには、

 

・・・みたいな経験、ありませんかね。全部、ホラー映画を見た後の、私なのですけれども。

 

普段、普通に過ごしている分にはなにも感じないトイレでも、こんなに怖く思えるのは、恐怖を『想像』してしまうからです。もしかしたら、ここには何かいるかもしれない、後ろには誰か立っているかもしれない、と。あれやこれやと考えずに他のことを考えて切り替えられたらすぐそんなこと忘れてしまうのに、はじめに少し感じた恐怖感をうっかり『想像』してしまうと、火蓋を切ったように恐怖感が倍増していくのです。こんな怖いこと、あんな怖いこと、まるで自分で自分を怖がらせるかのように、恐怖の想像は留まることなく広がってゆくのです。なんというマゾヒストな生き物なのでしょう、人間って。

 

ネガティブな想像から、被害妄想は生まれる

学校や職場で言われた、ちょっとした一言。

その一言は、たとえ同じ一言でも、受け取る側の人間が変われば、捉え方も異なります。『馬鹿だなあ』といわれて、聞き流せる人もいれば、本気で傷ついてしまう人もいるだろうし、ごく稀には快感を覚える方もいるでしょう。

けれど、そうではなくて、同一人物でも、その人の精神状態によって受け取り方が異なったりすることって、ありますよね。これは、対人関係において、とてもやっかいなことだと思っています。いわゆる、気分屋さんといわれる方々だったり、そうでなくとも、普段は気分屋さんではないのに、どうにも気分が落ち込んでしまう日って、人間なら誰しもありますよね。

ちょっぴりブルーになっている時に、ほんの少し、そう、普段なら聞き流せるようなことなのに、何気なく言われた一言がどうにも気になってしまう、センチメンタルな気分の日。普段ならしないはずの深読みを、うっかりしてしまうと、それはもう、ドつぼにハマってゆきます。

 

普段優しい先輩が、とろとろしていた私に投げかけた、

『おい、はやくしろよ』

のひとこと。普段なら、まったく気にしない(気にしないというのは、傷つかないという意味であって、先輩の言うことを無視するという意味ではありません)で、はーい早くやりまーす、くらいの勢いなのに、

(あれ、なんか、口調がいつもより、若干強い気がする)

と思ってしまう、おセンチな日のワタシ。

そう思ったが最後、その瞬間から、ネガティブカスケードはすさまじい勢いで下流へと流れ始めていきます。

 

(私がトロいせいで先輩を怒らせてしまった)

(そういえば、この間の飲み会で、酔った勢いで先輩をいじってしまったような)

(もしかして、あれってやりすぎたんじゃ)

(『あんまり調子に乗るなよ(笑)』って言ってくれてたけど)

(もしや(笑)なんて、ついていなかったのかもしれない)

(思い返してみればあれ以来、私が友達といるとき、先輩は友達にばかり喋りかけているような気がする)

 

こうなってくると、完全に『私は先輩から嫌われてしまった』という憶測は、確信へと変わっていきます。気にも留めなかったはずの以前の出来事が、ネガティブな想像(ネガ想)によって、憶測を裏付ける証拠へと変貌を遂げてゆくのです。

以前には『気にも留めなかった』のですから、本来であれば本当に気にすることのないはずの出来事なのでしょう。けれどネガ想によって、暗い気持ちは、まるで雨が降り出す直前の夏の入道雲のように、むくむくと巨大化してゆくのです。

こういったものは、『被害妄想』と呼ばれるのでしょうね。被害妄想をしてしまうのは、あまり良いことではありません。それに、そもそも、被害妄想をしてしまう時の精神状態は、あまりいい状態とは言えない『おセンチな日』なのでしょう。こんな日は、考えるのをやめて、ゆっくり紅茶でも飲んで身体と心を休めたほうが、私の経験上いいように思います。無理に人と会ってテンションをあげようとしても、被害妄想の種が増えるだけです。気丈に振舞ってみても、結構周りにはバレてしまうもので、やっぱり、そそくさと、おうちに帰るのが吉でしょう。

 

考えても事態が進展しない事柄は、考えないようにする

 

これは、ちょっとマニアックな病院関係のお話なのですけれど。

病院へいくと、『血液検査』ってされますよね。血液検査の項目には、『ナトリウム』『カリウム』といったミネラル系のものや『HDLコレステロール(いわゆる善玉コレステロール)』『LDLコレステロール(いわゆる悪玉コレステロール)』『中性脂肪』のようなメタボリックシンドローム関係の項目、『GOT』『GPT』『γ-GTP』などの肝臓の機能をあらわす項目など、たくさんあります。病院で血液検査をするときは、それぞれ目的に応じて、検査項目を選択するわけです。

たとえば、肝臓を痛めている患者さんには、『肝機能』がわかる項目を検査します。腎臓を痛めている患者さんには、『腎機能』がわかる項目を選択します。当たり前のことですよね。

 

たとえば、肝臓が悪くて入院している患者さんがいるとします。入院して治療をするわけですから、定期的に血液検査もします。その時に、もちろん、肝臓が悪いわけですから、肝臓の機能を調べる項目の検査をします。

で、入院中なので、ということで、せっかくだしあれもこれも検査してみよう、と検査項目を大量に増やしてみたとします。

一見、いい事のように思いますが、これはとても複雑な問題をはらんでいます。大量の検査結果をみてみると、肝臓とまったく関係のない項目、たとえば架空の『ABC』という数値が、少し上がっていたとします。上がっていたといっても、ほんの少しで、すぐに命に関わるような数値ではないくらい。この『ABC』に対して、どう対処するか、ということです。そもそもこの患者さんは肝臓が悪くて入院していたので、肝臓を治すことが第一のはずです。けれど、『ABC』に異常値が出てしまった以上、見過ごすことも気が引けるでしょう。

この『ABC』が急きょ命に関わるものであれば、即刻治療するべきですが、とくに今のところ放っておいても大丈夫な値だったとすれば、 むやみに薬を用いて治療することは、逆に患者さんの肉体的・経済的負担をかけてしまう可能性が十分にあります。

 

これはかなり簡略化した極端な話であり、実際はこんな簡単な話ではないのですけれど。このような例を出されて、私が上級医から教わったのは、

選択した検査の結果によって、今後の治療方針が変わらないのなら、その検査は追加するな

ということでした。簡単にいえば、無駄な検査をするな、ということです。無駄な検査とは、意味のない検査です。無駄な検査は、患者さんの負担ばかりか病院の負担も増やし、さらには『まず何を治療するべきか』という大事な道筋を荒らしてしまう存在になりかねないのです。

 

少し小難しいばかりか、かなり前置きが長くなったのですけれど。

これをネガ想にあてはめてみますと、

考えても事態の進展しない事柄は、考えるな

ということです。

あれやこれやと考えて、結論がでることであれば大いに悩むべきですが、どう頑張っても変えられない過去の出来事や、どうしようもないこと、明日にならないとわからないことなど、そんなことは、考えれば考えるほど入道雲のようにムクムクと大きくなり、心に雨を降らすことになることうけ合いです。いっそマゾヒズムに浸りたい気分の時以外は、答えが出ない、あるいは考えて今後の方針が変わらないことに関しては、考えないが吉だと思うのです。だいたいそういう日は、うまくいかない日。とまあ今日のところは諦めて、ホットミルクを飲んで、今晩はゆっくり寝るのがいいと思うのです。


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巨大化してしまったネガ像から逃れるには

怯えていた妄想が事実になればもう大丈夫。事実に怯える必要などない。

その事実を認めて何日間か泣けば良いだけだ。

 

村上龍

 

 

もし、ネガ像が巨大化して固まってしまった場合、それを解決するには、結局のところ、事実を自分の目で確認するしかないのでしょう。だいたいの場合、それは、拍子抜けするほど、『妄想』だったりします。あ、こんなものか、という程度。なので、早いうちに、想像が小さいうちに、事実を自分の目で確認するほうがいいと思います。

もし、そのネガ像が事実であったとしても、もう事実になれば、これ以上想像の中で歪んで膨らむことはないのですから、何日か泣いて、そしたら時間がきっと解決してくれるでしょう。偉大なる村上龍先生が、そうおっしゃっています。

いずれにしても、だいたいの出来事って、頭の中だけではどうにも解決しないことが多いのです。

 

 

楽しい想像に、はらんでいる危険

 

想像は、ネガティブだからいけないのか、というと、そうではないと思います。ポジティブな想像も、時として、とんだ危険を引き起こすことがあると思うのです。

ポジティブ、の言葉の定義の問題になってしまう可能性があるので、ここでは『楽しい想像』を『ポジティブな想像』と同義として考えてみます。

 

たとえば、明日は、ずっと前から約束していた大好きな彼氏とのデートだとしましょう。架空のネズミランドという遊園地に行くとします。すると、もう、楽しみすぎて、まず、着る服に悩みますよね。その日のために、わざわざ新しい服を買いに行くかもしれません。そして、ネズミランド攻略ガイドブックなんかを見ながら、このアトラクションに乗ろう、とか、このお土産を買おう、とか、頭の中でいろいろと想像します。想像の中では、もちろん、2人は仲良く手をつないで、彼氏にネズミマウスの帽子をかぶせたりして、きゃっきゃとはしゃいでいます。彼氏が、スプラウスマウンテンに乗った時に、顔にかかった水を拭いてくれたり、ハーニハントで普段クールなのに子供のようにはしゃいだりするところを想像しては、にやにやして、ああ、早く明日が来ないかなあ、と思うのです。想像時間が長ければ長いほど、それは綿密な想像になっていき、もはや想像というかスケジュールのようなものが、無意識に、頭の中でできあがってゆくのです。

そして、ネズミランド当日の朝を迎えます。うきうき気分で、昨晩SK-Ⅱでパックしたかいもあり、化粧ノリもばっちり、服も新しくおろしたもので、自分のコンディションはばっちりです。

なのに。

彼氏とたら、

『わりぃ、昨日、徹夜でマージャンしててさあ』

とかいって、コンディションは最悪なのです。服も、なんなら、2日前から来ているような気がする服・・。

(私はこんなに準備していたのに、デート、楽しみじゃなかったのかしら!)

なんて、ご立腹してしまうかもしれませんね。

そして、まさかの彼氏がジェットコースター恐怖症だったりして、

『あ、俺のれないから、下で待ってるわ』

なんて言いだしたりして。

(こんな予定じゃ、なかったのに!)

 

そもそも、予定、というか、それは想像の産物であり、予定ではないはずなのですけれど、こんな経験はありませんかね。私はよくあります。

もしこのデートが突発的なものであったとしたら、そのほうが、あるいは、楽しめたかもしれません。『彼氏ときゃっきゃしながらスプラウスマウンテンに乗る』という想像をしていないほうが、良い対応ができそうです。『俺、乗れないんだ』と言われても、『あそうなん!?意外(笑)可愛いじゃん!』ってなるかもしれません。

 

 

『ポジティブな想像』というのは、たとえば、自分が成功しているイメージを持つだとか、女優さんやモデルさんに対して『私もこんな風になりたい』と思うようなことが、主だった意味だと思います。これらの想像は、確かに、自分を高める、一種の自己暗示となり、いい方向に働きそうですね。明日はデートだ、という想像は、もちろん自分の気持ちを明るくしてくれると思いますし、楽しい想像は多くの場合良い影響を与えてくれるものであると思います。けれども、その想像が、これもまた歪んで、肥大化していって、相手に押し付ける『プラン』のような形へ変貌してしまうとよくない結果を引き起こす、そんな危険性もはらんでいるのではないかと思うのです。

 

まとめるとですね

 

以前から、かなり長い時間をかけて『想像』について考えてみたのですが、『想像』というものは、思っている以上に力のあるものなのではないか、という自分の結論に至りました。

『想像妊娠』では思い込みによって本当にホルモンの値が動くし、別にそんな大それたものでなくとも、大事な場面では、実際にアドレナリンがぶわっとでて普段出せない力を発揮させます。イメージトレーニングだって効果があるものです。プラセボ効果も実際に存在するもので、効能のない薬でも『効きます』と言われて飲んで、実際に病状がよくなったりすることは、全然稀なことではありません。

『想像』というのは、一種の、合法的なドーピングのようなものなのかもしれません。上に挙げたような、己の肉体を変えてしまう効果だったり、楽しい気持ち、悲しい気持ちを増加させる効果などをもっている、くすり、というか装置みたいなもの。なので、結構、慎重に使わないと、思わぬ副作用が出るかも。

なんだか、『想像ってすごい力を持ってるー』みたいな感じになったけれど、『想像』についてずっと想像しているうちに、肥大化して歪んだ結果導きされた結論なのかと思うと、やっぱり、想像って、怖くなってきちゃいますね。