世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

うさぎ、って書けなかったおばあちゃんの話

 

8月ももう終わる。気づいたら夏がもう終わりそうになっていた。

 

季節の始まりっていうのは何となくぼんやりしている、いつの間にか始まっている。そしてひとつ前の季節は気づかぬうちに終わっている。

虹は7色といわれているけれどその境目は曖昧なように、赤がいつのまにかオレンジになり黄色になっていくように、何となくまたひとつの季節がやってきてまたひとつの季節が終わっていくんだなあと思った。そして、特に、夏から秋への変化はひとを感傷的な気持ちにさせるよなあと思った。湿り気のなくなった乾いた風を浴びながら、わたしは、そんなセンチメンタルな気分になっていた。

 

いまはグラデーションのなかにいる、そう思った。

小さな変化、それはちいさな変化ひとつひとつの集合体で出来ている。

クーラーをつけなかったこともそのひとつだし、スタバに行ってアイスドリンクよりホットドリンクを頼む率の方が増えてきたのもそのひとつだし、夜が来るのが早く感じるようになったのもそのひとつだ。

 

ひんやりしたコンクリ壁でできている私の部屋は無機質で、冷たい。無機質で何もしてこない。何もしてこないという優しさ、けれど今日は何もしてこないという冷たさが心に刺さる。何もしてこないコンクリの壁は、こんなセンチメンタルな夜には向いていなかった。

 

 

『うさぎ』?

うさぎという単語から、なにか思い出しそうだった。

『そうだ、そういえばあれはうさぎの話だった』

遠い昔の記憶がよみがえる、あれはまだ私が幼稚園くらいだった、そのくらい昔のこと。こんな夜に、わたしはおばあちゃんにうさぎの話をしたことがあった。

 

 

 ”おはなし”というのは、わたしが布団のなかで考える創作のものがたりのことだった。私が布団の中で『むかしむかしあるところに一匹のリスさんがいました~』なんていう想像のおはなしをおばあちゃんに話すと、おばあちゃんは嬉しそうにそれを聞いてくれて、一言一句メモ帳にメモしてくれていたのだった。

 

 

そうじて小さい女の子はうさぎが好きで、例にもれず、わたしのその”おはなし”にも頻繁にうさぎが登場したのだった。けれど、なぜか、おばあちゃんは『ウサギ』と書くところを『ウナギ』と書いてしまうのだった。メモ帳をみて、『おばあちゃん~うなぎってなってる~!うなぎじゃなくて、うさぎ!』と何度もいった記憶があるが、何度言ってもおばあちゃんは『ウナギ』と書いてしまうようだった。『アハハ、なんでだろうね、ウサギ、だよね』といっておばあちゃんは『ナ』に一本棒をつけたして『サ』にしていた。何度言っても、何度言っても、おばあちゃんは『ウナギ』だった。

 

 

冷たいコンクリ壁に心を冷やされながら、わたしは思い出していた。なんとなくとても寂しい気持ちになった。もう二度と戻ることのない日々を思い出して、けれどもう一度そんな日々を作り出したくて、どうしようもない気持ちになった。

 

家に帰りたい。

 

特になにか辛いことがあるわけじゃない、悩みはそれなりにあるけれど一人でなんとかやっている、体調も良くはないけど特別悪いわけでもない、仕事もちゃんと行ってる、なんとか毎日それなりにやってるよ、ひとりでだいじょうぶ、なのに寂しい、寂しいよ。

 

 

おばあちゃんに会いたい、おばあちゃんに会いたいよ。

あんなに可愛がってくれていたおばあちゃん、私が県外の大学に行くことが決まって泣いてしまったおばあちゃん。ごめんなさい、ごめんなさい。

 

 

わたしは寂しい、寂しいからうさぎです。

でもわたしは全然平気、だいじょうぶ、それよりおばあちゃんが心配です。おばあちゃんウサギって書けなかったけど寂しがり屋だから心配です。おばあちゃんわたしなんかより全然うさぎです。

 

 

そんなことを思った昨日の夜、今日も涼しい、そして乾いた雨が降っている。わたしは今日も仕事してる。

週末だから友達とも遊ぶ、次はいつ実家に帰れるだろう。

あまりセンチメンタルな時にブログを書くのはよくないと思う、でも書き留めておこう、だから何?って話、そんな毎日を。