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世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

スタバにて

仕事関係のこと 他愛もないこと

たいていの時には、スタバにいる。

いまも、カフェミスト(のデカフェでソイミルク)を飲みながら、パソコンに向かっている。

スタバという場所は何となく、自分に酔っているというか、いわゆる意識が高いひとが行くといういうか、あまり良くない意味でのハイソなイメージを持っているひともいるようで、というか自分が落ち着く場所ならばどこで何をしていても構わないと思うのだけれど、わたしはスタバで村上春樹を読むのが好きなので(ただきょうカバンに入れてきたのは米原万里の『旅行者の朝食』)、そういった行為をしている自分が好きなのかもしれない人間なのだけれど、それで自分が満たされるのならそれでいいと思う。

 

前回の記事をみるに、ちょうど1年間ほど、このブログを放置していたようだ。

放置といっても、このブログの存在が頭から消えてしまっていた訳ではなく、むしろ書こうと思ったことは色々とあったのだけれど、頭の中でそれらの事柄を処理して文章にするという行為以上に、心のなかで処理しなくてはならない事柄が多すぎて、文章にするという行為が追い付かなかった。

ブログを書く、自分の感じたこと、考えたことを文章にするということは、自分の身に起きた事柄を振り返る事にほかならず、文章を考えている最中には何度もその事柄を頭の中で反芻することとなる。

結論から言うと、わたしは、見たくない過去から目を逸らし放置していたせいで、つまり自分に起きた事柄を反芻することを拒否していたせいで、ブログを書くことが出来ず、それどころかそのうち心を傷めてしまっていた。浄化が追い付かないほどの出来事が、この1年間にあった。それは、いま、振り返ることが出来たからこそ、解る。渦中にいるときには、そういった渦の中に自分がいることは認識できないものなのだということも、認識した。辛い出来事を反芻することはとても苦しいものだ。その一時には、とてつもない身体と心への負担がかかる。けれどそれをしないことには、その辛い出来事は、雪のうえを転がしたときの雪玉のように、時間を巻き込んでどんどん膨れてゆき、そのうちもっと大きな形で自らを苦しめることになる。想い出は時を経るごとに美しくなってゆくというけれど、どうも辛い出来事のなかには、時の流れだけでは浄化しきれないものもあるのだということを知った。そういったものを、もしかしてトラウマと呼ぶのかもしれない。

 

わたしは様々な限界がきて、ここ1か月仕事をお休みしていた。いまも、そのお休みの最中だ。上司から、文字通りドクターストップがかかった。どうしても仕事は続けたいと身体は思っていたけれど、それは難しいことだと心が諦めがつくほど、そのときの精神状況はボロボロだった。とりあえず実家に連れ戻された。最初の一週間は罪悪感でいっぱいで、何とか仕事に復帰できるようにしなきゃと焦るけれども頭が回らず、自分はこのまま呆けてしまうのではないかと本気で思った。記憶の定着も悪く、夢のなかで生きているようだった。現にいまも、仕事を休む前後1週間くらいの記憶が曖昧だ。眠ると怖い夢をみるので夜も眠れなかった。しんどいのは午前中で、吐き気とひどい倦怠感ととてつもない絶望のなかで朝を迎えた。ひどい状態だった。このまま消えることが出来ればどんなに楽だろうかと感じた。何もしたくなかった。両親がいなければ、本当に、いま、生きていなかったかもしれない。無理矢理エネルギー源を口から詰め込まされ、少し外を散歩したり、あるいは世の中の出来事をぼんやりテレビで眺めながら、そうしているうちに夜がきて、お風呂に入って布団に入った。そしてまた泣きそうになりながら微睡みの中朝を向かえる、そういう日々を1・2週間送った。

 

仕事を休む前、心療内科の先生は、わたしが仕事を何とか続けていきたいというニュアンスのことを話すと、それはあまりよい選択肢ではないと言った。本当に、どうしても、仕事から離れたくなかったのは、ここで休むと、もう仕事に復帰できないと思ったからだ。それでも、その状況ではとても命を扱う仕事は出来なかった。そういうことも、理解しているつもりだった。こんな状態の医者に診られるなんて、患者さんには申し訳が立たない、けれどしなくてはならない仕事に穴を開けることはどうしても避けたい、けれど長期的にみて重要だったのは、この状態をきちんと立て直すことだ、本当に、断腸の思いだった。大切なのは、未来の患者さんを助けることだ。涙をボロボロをこぼしながら、先生の言う通りにします、と振り絞るように言い、わたしは職場に休暇届を出しに行った。同期や、後輩、先輩に、本当に申し訳ありません、元気になって帰ってきますと言い、そこから、少し長いわたしの浄化作業ははじまったのだった。

職場の方々には、本当に感謝している。結果的に、休んだことは正解だったようだ。

こうして、ようやく日々を、振り返るという行為ができるようになった、それだけでも自分としては大きな一歩だと思う。また、この、自己満足の文章を、書いてゆこうと思う。浄化作業だ。後輩への、弔いとして。