世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

親友とは何かという長い話〜『過去10年で最高といわれた03’を上回る出来栄え』05’のシンユウ、Tokyo,Japan産でございます。〜

友達、という言葉がある。

そして、親友、という言葉がある。

 

とも-だち【友達】

互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友(ほうゆう)。友。

 

しん-ゆう【親友】

互いに心を許し合っている友。特に親しい友。

ーgoo辞書より

 

正直、辞書を読んでもぜんぜん、ピンとこない。

そもそも『自分なり』にこの言葉の定義を考える際には、辞書という存在はあまり意味をなさないと思われるし、求める答えが書いてあるとは思えないし、辞書での定義では明確な答えが書いていないから、こうやって悩むことのなるのだ。

 

上の辞書を読むと、『友達』の意味にはまず、『互いに』心を許し合って、と書いてある。ということは、友達と呼ぶには、相手が心を許していることが前提となっている。これを確かめるのは非常に難しいことではないだろうか。自分が心を許していても、相手が心を許してくれているかどうかは、どう頑張っても確かめることなどできないように思う。そして次には、『対等に』と定義されている。友達というのは対等の存在なのだ。友達というのは対等な存在です、というと、まあそうだよね、と確かに思うけれど、では、対等でない関係といったらそれはどういった関係なんですか、といわれるとこれはまた難しい。上司と部下、親と子供、こんなわかりやすい関係ばかりではないのが人間関係であって、まあ、けど、どちらかが相手を下に見ているという関係は友達ではないような気がするから、なんとなく分からなくもないかな、と思う。

では親友は、というと、上の定義を読む限りは、友達とほとんど内容が変わりないように思う。しかし『特に』親しい友、と定義されていることから、友達のなかでも『特別』と思える存在が『親友』というものなのだろう。じゃあ特別ってどういうことなのだろう、と考えると、そこはやはり主観的な問題であって、自分が『この人は特別だ!』と思ったら親友と呼んでいいのかな、ということになるだろう。

 

うーん、友達を定義するのは非常に難しい。というより、わたしが悩んでいるのは、友達とはこういうものです、という定義よりも、実際に求められるのは、『果たしてあの人は友達と呼んでいい存在なのだろうか?』という一問一答形式の問題の答えであるような気がする。

 

この話を考えるきっかけとなったのは、以前のエントリ『グッドバイ・世界』でid:kkzy9さんがこんなコメントをくれたことだった。

友達ってなんだろ。胸を張って「友達だよね?」って言える相手なんかいない。嘘偽りなく「俺は友達だと思っているから」って言える相手もいない。

 

このコメントをくれたkkzy9さん(かわぞいさん)は、『Letter from Kyoto(今はトロントにいます)』というブログを書いている方で、よくわたしのエントリにB※くださって私はとても嬉しい。初めにブログを読んでいたのはわたしの方だったと思うのだけれど、その時かわぞいさんはすでにKyotoではなくトロントに住んでいて、トロントをはじめとする海外でのエントリをよく書かれていた。すごく読みやすい文章で、短すぎず長すぎず、内容もトロントの事から自分の過去の話、時事問題っぽいお話などなど、いろいろあって飽きない。かわぞいさん自身は自分のことをプロフィールに『特徴がない』と書いているけれど、決してそんなことはなくって、ブログを読むとその切り口は『あ、そこから攻めるんだ』といった、わたしからみると斜め上から、しかもずばーっと容赦なく切り込むのがかわぞいさんの特徴だとわたしは思う。自分を(無意識かもしれないけれど)すごくすごく客観的にみていて、あたかもどこか上の方から自分を眺めて書いているような文章が、飄々とした、ちょっとやそっとでは動じない印象を与えてくれる。わたしのエントリにもよくコメントをくださるのだけど、その内容は、結構、わたしとしては痛いところをついてくる、というか、あ、そこ気づかれちゃったか・・・という穴、みたいな、文章が脆弱になっている部分、を、的確に、ずびーーっとついてくることが多くって、かわぞいさんの天性の嗅覚を感じるのです。

 

で、このコメントをくれた『グッドバイ・世界』では、友達、と親友、わたしは両方の言葉使っていて、それは意識的にその2種類の言葉を使い分けて書いていた。

このコメントをいただいたあと、かわぞいさんとはTwitterで少し意見を交わしたのだけれど、かわぞいさんは、友達という言葉のハードルが、わたしより高いのだな、ということを感じた。いや、言葉のハードル、というか、なるべく定義が曖昧な言葉を使いたくないのだな、と感じた。かわぞいさんは、だいたい『知り合い』という言葉を使われるそうだ。そして、『親友』という言葉についても、『親友という言葉は、友達に格付けをしているようで、あまり好きではない』ということをおっしゃっていた。わたしはこれに、かわぞいさんの相手への気遣いを感じた。知り合い、というと一瞬少し冷たい印象を受けるけれど、かわぞいさんはきっと、みんなできる限り平等に、特別扱いをしない、ということを大事にされるのだな、と思った。これがかわぞいさんの友達への友情表現の仕方なのだろう。

たいしてわたしはというと、友達、と、親友、という言葉を使い分けている。そう、これはある意味、友達を格付けしているということだ。けれど、なんというか、自分の中では『格付け』しているという感覚はなくって、例えるなら秋になるにつれていつのまにか赤色に紅葉するもみじのような感じ、『いつ紅葉したんですか』と聞かれたらはっきりとした日にちや時間は言えないけれど、そういえばここ最近、紅葉しているなって気づきました、という感覚だ。親友はもともとはたぶん友達で、いつのまにか、あ、もうこれは親友といってもいいんじゃないかな、という風になっている、そんな感じだと思う。どうなったら親友なのか、っていうのは言葉にするのはひどく難しいように感じる、けれどわたしの辞書にある『親友』の場合は、ある程度の時間が必要なのは間違いなさそうだ。たぶん、お茶したり映画に行ったり、ザ・友達っぽいことをしている間は『友達』で、そこからだんだんと時間が経って、お互い別のコミュニティができたり、あるいは住む場所が離れたり、そんなことがあっても、定期的に、1年に1回とかそんな頻度だったりしても、『連絡をとりたいな』『元気にしてるかな』と近況を聞きたくなる、そしてその久しぶりに会ったときには心から相手の幸せを願えている、そんな感じかなって、自分では思う。ザ・友達っぽいことをしている間には、おそらくその相手に何か悩みを打ち明けたり相談にのってもらったり、偶然にも助けてもらったり、何らかの形でなにかその相手には肉体的なり精神的なり助けてもらっていて、そのまま自然に、『わたしも何か手助けができたらいいなあ』『支えになれたらいいなあ』という気持ちが芽生えていて、時が経って『もしかしたら親友なのかもしれない』と思う頃には、こんなことがあったんだよって話したい、というより、むしろ会えていない間にあなたは元気だったかな、悩みとかはないかな、どんなことがあったのかな、とどちらかというと相手の話を聞きたくなるような、親友には、そんな感じがある。

別に、この子は友達だけど親友じゃないな、とあえて考えたりすることはない。けれど、生きているうちに、なんとなく特別に思う子は、出来てしまった。その理由はいろいろで、別にみんながみんな青春漫画のような泣きながら語り合った間柄では決してなくって、こちらのタイミングと相手のタイミングが奇跡的なタイミングであったことのよる出来事とか、そんな偶然的な要素も絡んでいると思う。わたしが親友だと思っている子がすべて、相手もわたしのことを親友だと思ってくれているかどうかというのは確かめようがないことだし、そんなことはないだろうな、とも思っているけれど、わたしの中でその子が『特別』なのは揺るがない真実であるし、その子が例えわたしのことを友達とすら思っていなくてもわたしがその子に助けられていることは消えない事実であるし、ここまで書いて思ったけれど、一方通行だとしても胸を張って『親友だ』と言える存在こそが『親友』なのかもしれないな、とも思った。特別をつくることは、他の人は特別ではないといってしまうことである、けれど、これは仕方のないことだとわたしは思う、それは色んな偶然の積み重ねを含んでいるからだ。

で、そうであるからこそ、今まで書いてきたようなこと、こんなことは心の中にしまっておくもので、面と向かって言うべきことではないかな、とも思う。状況が許すのなら『親友』だとか『友達』だとか、そんな定義の話をするのもいいかもしれないけれど、あえて、あなたは親友だから、とか、あの子は友達だから、とか言うようなことはしないだろうな、と思う。

 

ちょっと昔は、自分には友達がいない、と思っていた。友達という言葉は主観的だから、自分で、自分には友達はいないと、定義していた、のだ。わたしの事を本当に理解してくれる人などいない、という思いが根本にはあった。みんな楽しそうに話してる、でもわたしは笑えない、わたしの気持ちなどわかってくれるひとはいないから、だから友達はいない、と思っていた。みんながするようなキャンプとか、旅行とか、わたしは楽しくなかった、一緒にいるのは『友達』ではないから、心から楽しむことができなかったのだ。けれど、今思うとそれは、わたしの事を理解してほしい、という欲求を満たしてくれる人を『友達』と定義していたことが原因のひとつで、いつだったか世の中には自分の事をすべて理解してくれる人なんていない、と気づいてから、そのハードルが一気に下がってしまった。世の中には自分の事を理解してくれる人なんていない、というのは絶望の言葉ではなかった。わたしには、期待しないことが必要だったのだ。1から10まで笑いのツボがあう必要はない(そんなことはできない)、何もかも包み隠さず話さなくてもいい(性格的にそれは出来ないことだったことに気づいた)、友達だって親友だって、一緒にいたくないと思う時はあるものだし、そうそう、こういうことは「~が合わない」といった減点方式で考えるよりも、加点方式で考えた方がいいっていうことを学んだのだ。

今のわたしがいる場所は、『友達はいない』と思っていた頃と、状況はなんら変わっていない。けれど、キャンプも旅行も、それなりに楽しめるようになった。自分の事を理解してもらうなんていう願いはおこがましいし、相手の事を理解できていると思うこともまた、おこがましい。そんなもんなんだ、という諦め、一種の悟りのような感覚は、『ありがとう』のハードルを下げた。要は、ものさしひとつなのだ、目盛りをどこに振るのか、それは一切を自分にゆだねられている。すごくシビアにしてもいいし、甘くしてもいい、それは自分の思いひとつなのだ。

 

そこは、無数のワインが並んでいる、ワインセラーだ。

無数に並ぶ『ワインのように見える』その飲み物のなかで、『本物』のワインは数本かもしれないし、何百本もあるかもしれない。それは自分で決めるのだ。ひとくち飲んでみて『あ、これはワインだ』と思えばワインだし、香りでワインかどうか確かめるもよし、色で確かめるもよし、自分で『これはワインだ』と決めたものがワインになる。別に『これらはすべて、”飲み物である液体”です』としてもいい。

そのワインセラーのなかで、温度や湿度、日の当たり具合、なにか偶然の要素や、まあ、よく手をかけて面倒をみたワインは、いつの日か、『特別』なワインになるかもしれない。どのワインも等しくおいしくなるかもしれない。もし『特別色がきれい』、『濃厚な味わい』、『芳醇な香り』とかそんな風に、特別だと自分が思うワインができたならそれは特別なワインだし、自分のワインセラーに並ぶものはぜんぶ等しく特別なのだ、とするのもまたよし、ソムリエのように厳しく評価するもよし、なんというか、友達とか親友とかって、自分のなかではこんな感じかなって思う。でもやっぱりわかんないな、主観的だから統一された答えなんてないものなんだろうな、って思う。まあけど、こういうこと、自分のなかで考えておくことは大事かなって思う、そう、そんな風に思う。