世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

(無題)

これは、今年、平成28年の2月~4月にかけて書いた、日記のようなものだ。

忘れてはいけない、という思いと、心の整理のために書いたものだ。

ブログという公の場に書くことは、どうなのだろう、と思っていたが、この3週間程度の休みの中で、わたしは『自分の弱さを認めること』そして『わたしが弱い人間であるという事を、隠さずにみせること』ということを学んだ。これは、わたしがあまりにも様々な問題を他人(家族や友人)に話さず、ひとりで抱える傾向にある、というわたしに対する母親の評価に由来する助言だった。昔から、自分の思いを『口から発する言葉にする』のが極度に苦手だった。けれど、文章でなら、少しは伝えることが出来ると思う。そういう思いで、ブログで書くことを決めた。本当のところ、少し緊張している。このブログの存在は、自分のリアル生活における友人には、誰にも話していない。もちろん家族にも。(最も、父親はブログなどといったインターネットの世界に興味がなく、また、母親はわたしの個人的な日記は読まないようにするということを信条にしているようなので、知ったところで読まれないのだが)

唯一、1年半前に、四国から愛知へ病院をうつる際に、このブログのことを話した後輩がいた。かなり赤裸々に、そして自分の中だけに隠している気持ちや考えを書いているブログなので、本当に、彼女ひとりにしか話さなかった。なぜ彼女にだけだったのかということは、そんな大きな理由があるかというとそれは一言では言えないのだけれど、何となく、雰囲気として、彼女であればわたしの想いを『共有』してくれるだろう、という気持ちがあったからだった。彼女とは約1年間の付き合いだったが、濃い時間を過ごした相手であった。たくさんの想い出がある。そうして、わたしが愛知へ帰る際に、餞別の品として、バスセットと、短い手紙を渡してくれた。その手紙には、『あかめ先輩がいなくなったら、これからどうやって生きていったらいいか分かりません(笑)』と書かれていた。まさかその言葉が、今になってどれほどの重みを持つことになったのかということは、その手紙をもらった時には想像なんて出来なかった。

 

彼女は、もういない。彼女は、もうこの世界に存在しない。

 

これは作り話なんかではない。書いていて自分でも、嘘のように思えるのだけれども。

 

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後輩が自殺した。

後輩というのはわたしが初期研修をしていた病院で、わたしが2年目のときに1年目として入ってきた、明るく(みえる)はきはきした聡明な女の子だった。彼女は現役で医学部に入学したが、途中1年留年をしていたので、年齢はわたしと同い年だった。彼女は開業医の娘だった。しかし娘と言ってもひとり娘ではなく、同じく医学部へ進学した兄がいて、その兄も医者の奥さんと結婚したとのことで、跡取りに困っているようなお家事情はなかった。条件だけ見れば何不自由なく生きてきて、これからも生きてゆけるようにみえる人種の人間だった。おまけに彼女はほっそりとした体、胸もそこそこ大きかったし、愛らしい目をしていてひいき目でなく可愛かったし、先輩から好かれるような正直な性格をしていた。

彼女は研修医としてこの病院へ入る前に、何度か病院へ見学に来てくれていた。その当時わたしは研修医1年目だった。大きな病院ではなく、わたしの学年には他に女子がいなかったこともあり、病院のこと、研修内容のこと、その他他愛ないことなど、彼女が見学に来てくれた時にはいろいろと話したことを覚えている。そうしてすぐに仲良くなった。彼女はわたしのことを気に入ってくれていたのが分かったし、わたしもぜひこの病院に入ってほしいと思った。いろいろ教えてあげたいと思ったし、後輩として可愛がってあげたい、おいしいご飯を一緒に食べて、飲み会もして、彼女が後輩としていてくれれば楽しい研修生活が送れそうだと思った。

ある種の親和性というか、第一印象で、あ、この子とは仲良くなれそうだ、という雰囲気を持つという経験ってあると思う。いま周りにいる同性の友達を思い浮かべた時、その子と初めて出会った時のことを考えてみる。中には初めて出会ったとき、その第一印象がかなり悪く(しかもお互いそう思っていた)けれどその後とても仲良くなれるという子もいる。それほどの印象はなく、可もなく不可もなく、という感じでも、同じ時間を過ごしていくうちに仲良くなる子もいる。逆に最初かなりよい印象を持って仲良くなっても、どうしようもなく巻き込まれてしまったしがらみにより絶縁状態になってしまった子もいる。それでも初めに持った印象というのが良いと、打ち解け合うスピードは速いのだと思う。お互いの第一印象が最悪だった友達は、同じ部活動で嫌でも一緒に過ごす時間が長かったために、お互いを深く知る時間を持つことが出来たために仲良くなれた。たぶん、そういう環境に置かれなければ仲良くなることはなかったのだと思うし、相手の事をよく知ろうという気持ちにならなかったと思う。

その点彼女とは初めて会った時から、何というか、初めて会った気がしない感覚、今思えばどこかしら生い立ちや積んできた経験が似ていたのかもしれないし、根本的な性分が似ていたのかもしれないけれど、そういう印象だった。そうして、彼女が正式にわたしの後輩となってから、わたしと彼女の距離が寄り添うように近づくまでそう時間はかからなかった。

 

言ってもわたしが彼女と過ごしたのは、1年強という時間だった。

27年という人生を考えるとそう長くなかったのかもしれない。

 

彼女は自分のことを話すときには、基本的に自虐的なスタンスだった。自分の意見はおそらく心の中に持っていた。けれど他人の目や批判を気にしてなのか、表に出すことはそれほどなかったようにわたしには見えた。とても賢い子だったと思う、わたしの理解できる範疇を超えるほどに、そしてたまにいう『自分の意見』などは、すべて彼女の中で計算されて発せられた言葉なのではないかとわたしは思っていたが、それが果たして本当にそうだったのか、それともわたしの深読みのし過ぎなのか、今となっては知る由もないし、聞いたこところで彼女は答えなかったとは思う。

ゆきすぎた謙遜、固められた自我、抑圧された感情、泣きそうな笑顔。そういった言葉が彼女を形容するのには似合っていたと思う。それはよくないことだと思ったが、それを治すことが出来るほど彼女はもう小さくなかったし、その中でずっと生きてきてそこに居場所があり、彼女がいた場所、そこは傍から見ても、何もかもを振りほどき、自由になれるような場所ではなかった、正直に言うと彼女はあまり恵まれた環境に置かれていなかった。履歴書などに書けるような、箇条書きの条件ではみえないもの。周りの大人たちが、彼女の自由を奪っていた。それもおそらく、小さいころから、心の内部を、じわじわと蝕むように。そういったことを大人たちは悪意を持ってしていたことではないと思うが、悪意がなければ許されるかというとそうではないとわたしは思う。いや許すとか、許せないとか、わたしが口を出せる範疇の問題ではないので、やはりどうしようもなかったとしか言いようがないのだ。持って生まれたもの、自分の力で変えられないもの、そういったものは他人が批判すべきではないし、口をはさむべきではないとわたしは思う。そしてそれは、この出来事に対してやり場のない悲しみと、答えのない問いへの虚無感を生んでいる。誰かが彼女のいた場所から、引きあげてあげることが出来ていたなら。彼女の浸かっていた深みは、きっとわたしが想像していた以上に深く、冷たいものだったのだろう。そうして、わたしは、また自分が大切なひとを失ったことへの絶望を感じている。2年前に一度失って、考えたのではないのか。どうすればよかったのか。何をすれば後悔しないのか。

 

大学在学中の留年について、彼女は『遅く来た反抗期』といったニュアンスの事を言っていた。何をしていたのかと聞くと、彼女は『缶詰工場でアルバイトをしていた』と言っていた。確か、海産物系の缶詰工場と言っていたと思う。それについてわたしはとても笑ったが、ああ、そういう子なんだな、とも思った。そういう子、という感触をうまく言葉にできないが、なんというか、『病んでる』、ひと言で言ってしまえばそうなるのだが、繊細で、自分の気持ちを抑圧してしまうタイプの子というか、たぶん、医学部に現役で入学して、1年間の留年を缶詰工場のアルバイトに使う女の子って、そういないと思う。とにかく、わたしの中で彼女が異色を放っていたことは間違いなかった。そしてこのエピソードは、わたしに彼女をますます好きにさせたのだった。

 

彼女の自殺を聞いたのは、今年のお正月明けの事だった。

 

わたしは通っていた大学のあった県で初期研修の2年を終えて、遠い県外の病院へでていた。なので彼女と仕事をしたのは実質1年間だった、わたしの初期研修2年目と、彼女の初期研修1年目。今から半年くらい前に一度古巣へ行く機会があり、突発的に飲み会を開催したのだが、彼女は笑顔で来てくれて、コンビニでビールやおつまみを買ってきてくれた。その時私は3年目、彼女は2年目になっていた。あの時わたしは彼女と何を話したのだろう。直接交わした最期の会話になってしまったのだが、悲しいことにわたしはその内容を覚えていない。確かなことには、その時の彼女は、一緒に仕事をしていた時の彼女とそれほど変わってはいなかった。だからといって、彼女が精神的に病んでいなかったかどうかと言われるとその答えは難しい。もともと不安定な子だったのだ。ずっとそういった空気は纏っていた。それは付き合いが長くなればおそらく感じ取れる(こちらに感受性があれば)空気で、初対面だったり、その場をやり過ごすことに長けていたので、もちろん表立って暗かったりめそめそしたり弱音を吐いたりしない、むしろなぜいつもこんなに笑っていられるのかというくらいケラケラしていたので、ぱっと見ただけでは分からないが、ある程度付き合ってみてこちらにそういう感受性があれば、『この子は少し不安定なところのある子だ』ということに気づく、そういった空気を纏っていた。基本的に自虐的なスタンスだったが、それはあの時の彼もそうだった、そういったところはよく似ていた、そうして『この子は放っておくと危ないかもしれない』という微かな危険にわたしは気づいていたのだけれど、そう、だから半年前に久しぶりに会った彼女が『自殺の前兆を思わせるような』『特別な』雰囲気を醸し出していたかというと、そんなことはなかった。きっと、誰に聞いてもそういう答えが返ってくるのだと思う。記憶が確かなら、いや、確実に、わたしが最期に見た半年前の彼女は笑っていた。

 

お正月に『あけましておめでとう、元気にしていますか』というLINEを送ったのに、3日経っても一向に既読にならなかった時、嫌な予感が心をよぎった。しかし、その時わたしは、まさか自殺してしまっているとは思わなかった。研修を一時的に中断してしまっているかもしれない、とは思った。初期研修時代も、様々な問題(家庭のことであったり、進路のことであったり、恋愛のことであったりその他もろもろの事に関して)を抱えては泣きそうな顔で笑って話してくれていた彼女を思うと、仕事が出来ないくらいの精神状況に追い込まれてしまっていると聞いても、正直なところそう驚かなかった。もちろんとても辛いことではあるけれど、誰にでもそういう事はあるし、自分を責めないでほしい、近いうちにそちらへ行って元気づけてあげないとな、と思った。そして彼女について詳しく状況を聞くべく、古巣に残ったわたしの同期に『彼女、最近元気にしてる?』というLINEを送ってみたものの、そちらの方も3日経っても一向に既読にならず、嫌な予感は、少しずつ少しずつわたしの心の中で広がっていった。一度回り始めた嫌な予感スパイラルは、自分の重力を糧にしてあっという間に加速して回り始めていた。不安という小さな粒は、目に見える大きさの粒子となり、まるで霧のように拡がり濃厚な恐ろしい空気となってわたしの周りを覆っているようだった。何かがおかしかった。

おかしいと思ったら、もう、とにかく誰かに彼女の動向について聞かなければならなかった。手当たり次第に、最近の彼女を知っているであろう人間に電話をかけてみた。よく覚えているが、あれは大きな最寄り駅にあるスタバでの出来事だった。わたしは焦っていた。嫌な予感は、小さな風船を膨らませるようにじわじわとわたしの心のなかを支配していき、ちょっとずつ大きくなるそれは、スペースの狭くなった居場所からするっと抜け出すように口から吐き出させられそうになり、わたしに本物の吐き気を催した。吐きそうになりながら電話をかけた。電話は長いコールのあと、彼女の同期のひとりだった女の子につながった。

『もしもし』

電話に出たその子は、眠たそうな声をしていた。どうやら当直明けだったようだ。こんな時にごめん、と謝り、ところでさあ、○○ちゃんって、元気にしてる?とわたしは聞いた。

少しの間があった。

わたしは、今ほど隣に誰かにいて欲しいと思ったことはないというくらい、誰かしらにそばにいて欲しいと思った。聞きたくない。次に発せられる言葉は、聞きたくない。こんな思い、2年前にもう二度としまいと誓ったはずだった。

『えっと』

とその子は落ち着いた口調で言った。今思えば、その子は彼女の死をもうかなり前に知っていたのだ。そして、わたしがそのことを知らないであろうことも分かっていて、丁寧に言葉を選んでくれているようだった。

『○○ちゃん、じさつしたんです。去年の、11月くらいに・・』

ああ、と思った。ああ、またか。

またか、という絶望と、信じたくないという拒絶が、わたしの心の中で相いれない風に渦巻いていた。

またお前は友人をひとり殺したのだ、と頭の中で誰かが言ったように思った。

 

 

低空飛行するように、心の奥底を漂っていた疑問があった。近しい人間が立て続けに2人自殺してしまったことにおける、自らの、彼らに対する(自殺に対する)親和性についてだった。

友人Aによれば『それは偶然だよ』とのことであった。わたしとしても、そのことに関して追及したところで得られるものは皆無だろうし、誰も得することではないという事は理解しているつもりだし、だから何と言われればそれまでだ。深追いしてもいいことではないから、この考えはここでおしまいにしなくてはならない、それでも考えてしまう、これがただの偶然なのだとしたら、わたしの人生を動かしている神様はなんて非情なのだろう。

 

 

一連の出来事について、詳しく知っているひとは数多くはいないようだった。家族にとっても、近しい病院関係者にとっても、言いふらすべき事柄ではないし、古巣においてもまだ知っている人は少ないと思います、というのが電話先の後輩の話だった。それでもどこからか情報は漏れるのだろうし、この話はそのうちにひっそりと広まってゆくのだろうなと思った。また別の人間から聞くことには、彼女は遺書をのこしていたらしく、その内容は主に感謝と謝罪の言葉であったらしく、そして練炭自殺だったらしかった。練炭自殺というのは辛かった。いや、どんな死に方でも辛いのだが、前々から準備をしていた死に方というのは彼女の死への願望が突発的なものではないことを物語っており、死へ向かわせないルートが残っていた可能性を示すものであり、そう思うとやりきれなかった、ただ、ただただ、やりきれなかった。

2年前に死んだ彼についてよく知る友人Aに、『また』友人が自殺してしまったことを話すと、彼はわたしが大丈夫かどうか一通り聞いてくれたあと、『きみの心情は察するに余りあるよ』と言ってくれた。心情は察するに余りある。わたしは彼のこういった言葉遣いがとても好きで、心地よく感じた。同じ痛みを知るひとに寄り添ってもらえることがどんなに幸せなことかと思った。しかし皮肉なことだと思う。大切なひとを亡くして、大切なひとを再確認する。失って初めて気づくありがたみ、という言葉に異論はないが、失わないと気付けない痛みというのはずいぶん子供な出来事のように思う。もう過去に過ぎているはず、学習している痛みのはずで、それを繰り返している自分が馬鹿みたいだった。2年前の友人の死は、ずいぶんわたしを変えたのだと思う。それは成長といえば成長だし、大人にさせたといえば大人にさせたし、痛みを鈍くしたといえば認めたくないがそのようであるようだった。自分はずいぶん、痛みに鈍感になったものだと思う。ひとは傷つく出来事を経験してゆくたびに、自分を守るために心に鎧を纏うことを覚える、使いまわされている比喩表現だと思うが本当にその通りだと思う。わたしは鎧を纏ったことで痛みに鈍感になっている。死んだ彼女のことも、どこか遠い国でおきた出来事のように感じている。

たぶん、どうしたらよいのか分からないのだ。2度の大きな失敗は、わたしの自信を喪失させるのに十分だった。

痛みに鈍くなった分、浄化も同時に鈍くなっているようだった。痛みはいつまでもくすぶっている、彼女の死は、近い将来に綺麗に浄化されることはないのだろうという確かな予感をはらんでいた。

 

(無題・2) - 世界を食べたキミは無敵。 へ続きます。

スタバにて

たいていの時には、スタバにいる。

いまも、カフェミスト(のデカフェでソイミルク)を飲みながら、パソコンに向かっている。

スタバという場所は何となく、自分に酔っているというか、いわゆる意識が高いひとが行くといういうか、あまり良くない意味でのハイソなイメージを持っているひともいるようで、というか自分が落ち着く場所ならばどこで何をしていても構わないと思うのだけれど、わたしはスタバで村上春樹を読むのが好きなので(ただきょうカバンに入れてきたのは米原万里の『旅行者の朝食』)、そういった行為をしている自分が好きなのかもしれない人間なのだけれど、それで自分が満たされるのならそれでいいと思う。

 

前回の記事をみるに、ちょうど1年間ほど、このブログを放置していたようだ。

放置といっても、このブログの存在が頭から消えてしまっていた訳ではなく、むしろ書こうと思ったことは色々とあったのだけれど、頭の中でそれらの事柄を処理して文章にするという行為以上に、心のなかで処理しなくてはならない事柄が多すぎて、文章にするという行為が追い付かなかった。

ブログを書く、自分の感じたこと、考えたことを文章にするということは、自分の身に起きた事柄を振り返る事にほかならず、文章を考えている最中には何度もその事柄を頭の中で反芻することとなる。

結論から言うと、わたしは、見たくない過去から目を逸らし放置していたせいで、つまり自分に起きた事柄を反芻することを拒否していたせいで、ブログを書くことが出来ず、それどころかそのうち心を傷めてしまっていた。浄化が追い付かないほどの出来事が、この1年間にあった。それは、いま、振り返ることが出来たからこそ、解る。渦中にいるときには、そういった渦の中に自分がいることは認識できないものなのだということも、認識した。辛い出来事を反芻することはとても苦しいものだ。その一時には、とてつもない身体と心への負担がかかる。けれどそれをしないことには、その辛い出来事は、雪のうえを転がしたときの雪玉のように、時間を巻き込んでどんどん膨れてゆき、そのうちもっと大きな形で自らを苦しめることになる。想い出は時を経るごとに美しくなってゆくというけれど、どうも辛い出来事のなかには、時の流れだけでは浄化しきれないものもあるのだということを知った。そういったものを、もしかしてトラウマと呼ぶのかもしれない。

 

わたしは様々な限界がきて、ここ1か月仕事をお休みしていた。いまも、そのお休みの最中だ。上司から、文字通りドクターストップがかかった。どうしても仕事は続けたいと身体は思っていたけれど、それは難しいことだと心が諦めがつくほど、そのときの精神状況はボロボロだった。とりあえず実家に連れ戻された。最初の一週間は罪悪感でいっぱいで、何とか仕事に復帰できるようにしなきゃと焦るけれども頭が回らず、自分はこのまま呆けてしまうのではないかと本気で思った。記憶の定着も悪く、夢のなかで生きているようだった。現にいまも、仕事を休む前後1週間くらいの記憶が曖昧だ。眠ると怖い夢をみるので夜も眠れなかった。しんどいのは午前中で、吐き気とひどい倦怠感ととてつもない絶望のなかで朝を迎えた。ひどい状態だった。このまま消えることが出来ればどんなに楽だろうかと感じた。何もしたくなかった。両親がいなければ、本当に、いま、生きていなかったかもしれない。無理矢理エネルギー源を口から詰め込まされ、少し外を散歩したり、あるいは世の中の出来事をぼんやりテレビで眺めながら、そうしているうちに夜がきて、お風呂に入って布団に入った。そしてまた泣きそうになりながら微睡みの中朝を向かえる、そういう日々を1・2週間送った。

 

仕事を休む前、心療内科の先生は、わたしが仕事を何とか続けていきたいというニュアンスのことを話すと、それはあまりよい選択肢ではないと言った。本当に、どうしても、仕事から離れたくなかったのは、ここで休むと、もう仕事に復帰できないと思ったからだ。それでも、その状況ではとても命を扱う仕事は出来なかった。そういうことも、理解しているつもりだった。こんな状態の医者に診られるなんて、患者さんには申し訳が立たない、けれどしなくてはならない仕事に穴を開けることはどうしても避けたい、けれど長期的にみて重要だったのは、この状態をきちんと立て直すことだ、本当に、断腸の思いだった。大切なのは、未来の患者さんを助けることだ。涙をボロボロをこぼしながら、先生の言う通りにします、と振り絞るように言い、わたしは職場に休暇届を出しに行った。同期や、後輩、先輩に、本当に申し訳ありません、元気になって帰ってきますと言い、そこから、少し長いわたしの浄化作業ははじまったのだった。

職場の方々には、本当に感謝している。結果的に、休んだことは正解だったようだ。

こうして、ようやく日々を、振り返るという行為ができるようになった、それだけでも自分としては大きな一歩だと思う。また、この、自己満足の文章を、書いてゆこうと思う。浄化作業だ。後輩への、弔いとして。

 

そのジェンガを崩さないように

ジェンガをほぐしてゆく。

崩さないようにジェンガをほぐしてゆく。

どこを抜けばジェンガは倒れずに立っていられるのか。ひとつの腐食したジェンガのかけら。かけら。ピース。それを抜いても、そのジェンガは立っていられますか。

どれだけ抜いてもジェンガジェンガである、いや、そういうわけではない。どこかで倒れるときがくる。崩れるときがある。信じられない程簡単に。崩れたジェンガはもはやジェンガではない。かけらたちの集まり。ただの塊。そうしたらそのゲームは失敗。終わり。

ひとつかけらを外したところで、倒れるときは倒れるもので。崩れるときは崩れるもので。けれどもただ立ってさえいられれば、どこまで抜いてしまってもかまわない。かまわないの。そういうルールでいまは進んでいる。ジェンガはそういうものというルールでわたしたちはかけらを外していく。大胆に、大胆に。倒れることさえしなければ、それはジェンガだと言える。そういうふうに、外していく、抜いていく、限りなく倒れないぎりぎりのところを攻める。それが美徳であると。この世界での美徳であると。そういうふうにできているみたいだ。この世界では。

 

ひとつの腐食したジェンガのかけら。

それを抜くとその腐食したジェンガのひとつ上のジェンガに腐食が伝染している。

それを抜いてもそのジェンガは立っていられますか。

 

抜けるのならばどこまでも。腐食が伝染しないように広がらないように。綺麗なかけらでさえも。立っていることに関係のないかけらならば抜いてもかまわない。腐食を防げ、防げ、ふせぐんだ。広がる、ひろがる、くずれかけるジェンガ。ただの塊にならないように。わたしたちは抜く、抜く、ぬいてゆく。

 

そのジェンガは世界を動かしている核だ。

そのジェンガは、脳そのものだ。

 

『麻痺さえ出なければ』

『失語さえ出なければ』

 

そういってまた腐食したかけらを外していく。ゆけるところまで。たった1本の柱で支えられているおおきな神殿。揺れる揺れるゆれる。けれどまだ立っている。まだ立っていられる。そうであるならば。そうあなたが叫ぶのならば。限界まで外して差し上げましょうそのジェンガ

 

(脳腫瘍に立ち向かうということ)

 

 

寂しい病のおばあちゃんと、わたし

病棟の最上階に、長いこと入院しているおばあちゃんがいる。

青山さん(仮名)齢80歳、旦那さんは代々弁護士さんの家系だったらしく、ハイソな生活をしてきたおばあちゃんだ。ずっと旦那さんとは仲が良かったとみえて、お金にも愛情にも不自由ない人生を歩んできたようだ。愛に恵まれて生きてきたことが、表情にあらわれている。そうして旦那さんも自分も年を取り、老後は2人で仲良く綺麗な介護付きの施設に入所しようとしていたようだが、その矢先に旦那さんに先立たれてしまったらしい。青山おばあちゃんは、いま、愛情に飢えた毎日を送っている。もともと聡明な方で、本人はぼけてしまったと言っているけれどそんなことは無く、今でもしっかりされている。けれど身体にはガタが来てしまっているようで、足がむくんだりとか、膝や腰が痛かったりとかで、毎日病室とリハビリ室をいったりきたりの生活になってしまっている。実際のところ頑張ればもっと活動的な生活ができそうだが、どうやら旦那さんが亡くなってしまって、心がからっぽになってしまったようなのだ、もう、何もしたくない、早く旦那さんのところに行きたいと悲観的になってしまっている。貯蓄は十分にあるので病院にいる必要は必ずしもないのだけれど、『自分に合うお手伝いさんがみつからない』『つまらない老人ホームには入りたくない』と言って、かれこれ半年以上、この病院に居着いてしまっている。とはいっても病院でもスタッフがいつでも相手を出来るわけではないので、わたしは上司に『暇なときは話し相手になってあげてくれ』と言われ、時間がある時には病室へ行き、青山おばあちゃんの話し相手をしている。

青山おばあちゃんは、カルテの看護師さんの記録を見ると、『S(患者さんの言葉の意味):もう行っちゃうの。もう少しいてよ。さみしい。』と駄々をこねてしまっているようだ、本人も『私は寂しい病なのよ』と自分で言っている。寂しい病は、薬では治らない。わたしが30分行ったところで、『帰っちゃうときが寂しいから、もう来なくていい』と言い、いつも病室から出るときにはなんとも後ろ髪を引かれるような思いをしている。今日の青山おばあちゃんは『つまんない相撲ももう終わっちゃって、なにも見るものがなくなっちゃったわ』と言っていてわたしは少し笑った。『つまんない相撲でも、こうしてみている側はなんとなく動きがあって楽しいものね』。わたしは『相撲も結構面白いですよ。わたしは行司さんの動きを見ているのが好きです。』と言ったら、渋い顔をしていた。『でも日本人が弱くてどうしょうもないわね。』最近は下痢をしてしまったとかで、ご飯がおかゆになってしまったらしい。『おかゆになったとたんに量が倍くらいになって。もうお椀にこんなに盛られて運ばれてくるの。まずいのなんの。晩御飯が怖い。』といってまた悲痛な顔をしていた。『何か食べたいものがあれば買ってきますよ』とわたしが言うと、『せっかく用意してくれているものだから食べる。』と言っていた。青山おばあちゃんは、駄々っ子なのだ。わたしは、わがままなお嬢様の相手をしている執事の気分になる。でも青山おばあちゃんは優しい、本当のおばあちゃんと話しているようで、わたしが何を言っても肯定してくれる、そういうおばあちゃん独特のなにもかもを受け入れてくれる包容力がある。実際のところわたしは青山おばあちゃんに対してなんの診察も治療もしておらず(主治医は上司であり管理は上司がしている、青山おばあちゃんはVIPなのだ)、ただ話すためだけに病室へ行っている。青山おばあちゃんは、正直なところ、病院で治療が必要な病気を持っている訳ではない。けれどおそらく、病院では治療できない病気を持っている。そう、寂しい病だ。寂しい病は、どうにもよくならない。青山おばあちゃんの寂しい病を根本的に治療するのは不可能だとわたしは思っている。

じゃあ、わたしは何のために青山おばあちゃんのところへ行くのか?

そこに合理的な理由はないのかもしれない。青山おばあちゃんは少しの間だけれど話し相手が出来て嬉しく思ってくれてはいるかもしれない。そしてわたしの方はわたしの方で、自分のために行っているようにも思う、青山おばあちゃんのところへ行くときのわたしは、医者ではないのだ。鈴木あかめとして行っている。なので深いことは考えない。あまり深く考えると、こういうことは悲しい結論にいきつくことが解っている。

 

なんとも言えない切ない気持ちになったので、本屋さんで大量に本を買ってしまった。きょうは医学とは関係のない本を買うぞ、と決めていたのに、つい手に取ってしまった本が医学寄りなものばかりでつらい。

 

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左上から、『蝶々の纏足・風葬の教室/山田詠美』『何もかも憂鬱な夜に/中村文則』『99.9%が誤用の抗生物質/岩田健太郎』『すぐに役立つ脳神経外科救急ハンドブック/日本脳神経外科救急学会』『ゲスな女が、愛される。/心屋仁之助』『まどか26歳、研修医やってます!/水谷緑』『サブリミナル・マインド/下條信輔』『素数はなぜ人を惹きつけるのか/竹内薫』。

山田詠美さんの本は、id:letofoさんのブログで紹介されていて惹かれたので買ってみることにした。まどか26歳、研修医やってます!は、主人公の研修医の女の子が、上級医の厳しい外科医に『こんのド下手クソがー!雑!死ねっ!医者なんかやめちまえ!』と手術中のミスで怒鳴られているシーンをうっかり立ち読み中に見つけてしまい、思わず涙があふれそうになったのでやむを得ず買ってしまった、この研修医なんというわたし。けれどまどかちゃん(主人公)は『ちくしょーあそこまで言うことないじゃんよーーっ』とひとりやけ酒を飲んでおり、対して自信をなくしてしょんぼりしていたわたしに少し勇気を与えてくれた、見習うべきお手本は、本の中にいた。そうか、ちくしょー、って思って良かったんだ。

 

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件のシーン。これ実際にあるから怖い。非常にリアルなエピソードと、綺麗ごとじゃない包み隠さない女医の心情が描かれていて感動。でもこういう厳しい先生は得てして信条を持って仕事に命をかけており、患者さんからの信頼はばつぐんに厚い、くやしいけれど憧れなのだ。

どぎつい色のゼリービーンズ

おもむろに隣の席をみると、同期の机の上に、ザ・アメリカンなパッケージのお菓子が置いてあって、パッケージのおもてには、STAR WARSの絵が描かれていた。中にはポイフルっていう昔あった(今もあるのかな??)ゼリービーンズによく似た、カラフルの色のゼリービーンズが入っていて、けれどその色は日本にいる限り食べ物として見ることのないようなどぎつい色をしていた。隣の席の同期が『いっこ食べる~~??』と言ってきたのでわたしは『いらない』と言ったのに、いいじゃん食べようよ僕も食べるから、といって白いゼリービーンズを無理矢理わたしに渡してきた。わたしのなかの日本人の遺伝子が、食べ物の色ではないと頭の中で警鐘を鳴らしていた。同期も同じ色の白いゼリービーンズを手にしていて、同時に口に放り込んだのだけれど、10秒くらいして同期が『おえっ』と言いながら口からゼリービーンズを吐き出した。わたしが食べたのは甘くてカラメルのような味のするおいしいゼリービーンズだった。パッケージの裏をみると、わたしが食べたのはどうやら『バターポップコーン味』で、同期が食べたのは『腐った卵味』だった。同期はおえって言いながら後輩の男の子に『ゼリービーンズあげる~』と被害者を増やす活動をしており、後輩は『おえっなにこれめちゃくちゃまずいっすわ』と言いながら5つくらい連続でゼリービーンズを食べており、めちゃくちゃまずそうなのに先輩の言われるがままに楽しそうにゼリービーンズを食べていて、『吐しゃ物の味』とかもあったのに、笑顔で食べる姿を見てわたしはとても感動した。彼は男子校出身で、男子校出身の男の子ってそういう男気があるとたまに思う。

 

 

きりたんぽのこと

最近とある友人とご飯を食べる機会があり、そのお店の予約はわたしがとることになった。どんなお店がいいか友人に聞いたところ、『炭水化物をプッシュしていないお店』との返答であった。どうやら筋力トレーニングにはまっているらしく、肉体維持のため夕食には炭水化物を抜いているらしい。わたし自身は筋トレには全然詳しくないけれど、どうやら良い筋肉のために炭水化物はよくないらしかった。

わたしは焼き鳥屋と京料理屋を提示し、友人に選択してもらうことにした。友人は焼き鳥屋がいいと言った。たぶん、ささみとか、そういった脂身の少ないお肉を欲しているんだろうなと推測された。

いざ友人と焼き鳥屋に行き、メニューを広げ、何を頼もうかと聞いたところ、『この店、きりたんぽがあるやん。きりたんぽは外せないな。』との返事が返ってきた。ん?と思った、少し考えて、きりたんぽのことを思い出してみたけれど、わたしの記憶が正しければ、きりたんぽは炭水化物のはずだった。確か、お米かもち米みたいなものを竹の串に巻き付けて焼いた、五平餅のような食べ物だったと記憶していた。

実際のところきりたんぽはそれほどわたしの生活になじみがなく、自信もなかったし、『きりたんぽは炭水化物なんじゃないか』と言うことができなかった。結局、流されるままきりたんぽを2人前頼んだ。そうしてテーブルにやってきたのは、やはりわたしの記憶の中のきりたんぽであり、炭水化物だった。友人は特に驚きもせず、おそらく友人も思っていた通りの注文が来たという顔で、『きりたんぽやっぱり美味しいな』といってほおばっていた。初めて食べたきりたんぽは、確かにおいしかった。

食事が終わって友人と別れるまで、『きりたんぽは炭水化物だったのではあるまいか』と言い出すことは、最後まで、できずに終わった。友人は満足げな顔で帰っていった。わたしは友人と別れてからというもの、きりたんぽのことが頭から離れず、ずっと考えていて、ずっとそのことを考えていて、もしかしてと辿り着いた結論は、友人はきりたんぽを練り物の類の食べ物だと勘違いしているのではないか、という事だった。確かに形的に、きりたんぽは、ちくわに似ているといわれれば似ている。食べればきりたんぽはどう考えてもお米の味がしたけれど、友人が練り物だと思い込んでいたとすれば、あるいは友人には魚の味がしていたのかもしれない。

友人は少し間が抜けているひとだった。

そして、言えなかったけれど、わたしは、あの日イタリアンが食べたかったのだ。

 

あの夜、友人はきりたんぽを堪能しながら、イタリアンを酷評していた。友人はビールを飲んでいたので、少し顔は火照っていた。イタリアンのメニューはなんや、パスタにピザにパンに、炭水化物に、チーズみたいな脂肪分、どう考えてもからだに悪いやないか、対して日本料理はおかずが多いから、炭水化物をとらんくても腹いっぱいになる、やっぱり日本料理さいこうやな、うんぬん、かんぬん、わたしはそうやねと適当に相槌をうちながらほんとうはイタリアンが食べたかったことを考えていた、けれど炭水化物をとりたくないという友人の希望を叶えるためにはイタリアンは適さないと泣く泣く諦めたことを、きりたんぽをかじりながら考えていた。

 

友人は少し天然ボケだったけれど、わたしはこれを機にきりたんぽのことが好きになったのでまあよかったかなと今は思っている。そして友人の、美味しそうにきりたんぽを食べている姿を思うと、次に会ったときにも、たぶんわたしは、きりたんぽは炭水化物だよということは言いだせないと思う。

本当は怖い!?当直の実態

夜の病院は恐ろしい。

恐ろしいと言っても、お化けだとか幽霊だとかそういった類のお話ではない。恐ろしいのはいつでも生身の人間だ。病院においてすでに死んでしまった人間(あるいはそれが化けて出たものだとしても)はそう恐ろしいものではなく、本当に恐ろしいには今まさに死のうとしている人間だ。なので『病院はお化けが出そうで怖い』というのはある意味ジョークにすら感じてしまう。生きるか死ぬか、その間でさまよっている瞬間の人間は恐ろしい。血圧が200と40の間を行ったり来たりしている。なんということ。心臓が動いていない。脈拍が30を切った。生きているから怖いのだ。なんとか命をつながなきゃ。・・そんなことを言っている私がある意味怖いのかもしれない。全然可愛らしくない。のである。

それはさておき、夜の病院に言った経験はあるだろうか?夜の病院、あるいは日中の正規の診療時間が終了したあとの病院、つまり救急外来のことである。たいてい救急外来、あるいは救急車できた患者の対応をしているのは若手の医者である。それも、若手も若手、ひよっこ研修医が診療にあたっている可能性はかなり高い。専門分野をまだ持たない研修医にとって、救急外来は重要な仕事である。彼らは正規の診療時間が終わってからが本番なのである。研修医は救急対応の最前線にだされて歩兵のように働いている。たいした武器も持たずほとんどの場合は体当たりで診療しているもとの思われる、わたしの場合もそうだった。ポケットに赤本をつっこみ、患者さんを『ちょっと待ってください』といって診察室から出して、必死で該当ページを探す。そんな経験は9割くらいの医者はしているのではないだろうか。大事なのは『いっぱいいっぱいであることを悟られない顔』をすることである。見た目から若い研修医は、そもそも患者さんから不信感を持たれやすい。そんな中で『えーっとえーっと』なんて言おうものなら『もっと上の医者を呼んで来い!』と怒鳴られてしまう。もっと上の医者はもっと重症な患者の対応で手が空いていない・・そんな中で大したことのない用事で呼び出したらそちらからも怒られてしまう、なので、水面下でばたついている白鳥のように不安な気持ちを必死で隠し、余裕で泳いでいる様子をみせるのだ。ぼくちゃんとひとりで泳げるもん。と。

そんな初期研修2年間が終わったピカピカの3年目であるわたしを待っていたのは、ひよっこたちの面倒をみて、彼らの責任を負うことであった。それなりの病床数をもつ小中規模の当病院であるが、当直体制は、3~10年目くらいの若手医師1人+研修医1人の2人体制なのである。つまり、わたしと、研修医ひとり、たった2人で救急車と、救急外来をまわしている。

診断がつき入院治療が必要な場合、該当する科の待機の医者を呼べば、まあたいていすぐに来てくれる。ただ、診断をつけるまでは、ふたりぼっちの孤独の救急なのだ。もちろん常に2人セットで行動しているわけではなく、研修医がひとりで外来をすることもある。わたしが当直をしているときには、研修医はいちおう独断では患者を帰らさせないようにしているので、一通りカルテや検査結果を見てGOサインを出すことにしている。けれど、それができていないことも往々にしてあるだろう、そういう話も聞く、それがいまの救急の実態なのだ。

とは言っても、わたしだって3年目、そんなに経験豊富なわけではない。泣きそうになる瞬間がいくらだってあり、けれどそんな顔を研修医、看護士さん、まして患者さんにみせられるわけもなく、歯を食いしばって笑顔で診療している。慣れないエコー片手に心臓の動きをみて、CT画像を何度も何度も行ったり来たりさせながら、free airはないかどうか目を皿のようにして探す、起きている時間が24時間を超えるともはや、何のために救急をしているか分からなくなる時がある、患者さんのため、それとも自分のためなのか・・

けれど、どんな泣き言を言っても、自分が止まってしまっては、救急の業務すべてがストップしてしまう。泣いても目の前の患者さんの診断はつかない。泣いても患者さんの命は救われないのだ。

診療時間外に来る患者さんは、それなりの理由があるのだ。次の日まで待てない、何らかの理由が。そう、そう信じている。そう信じて診療をしている。

 

明日は当直だ。明日、この地区のみんなの健康を祈って。そして、どうか・・どうか、飲みすぎないでください!!アルコール中毒は、けっこう、大変なんです!!特に、女の子・・吐しゃ物まみれでは、可愛らしい洋服も、メイクも、台無しだよ!!成人しているのだから、みんな自分のキャパシティーを把握して、節度ある飲み会をしてください!!明日、飲み会の人は、となりで飲みすぎていないか・・しんどそうにしていないか・・みてあげてください!!吐き始めたら、身体を横にして、吐しゃ物で窒息しないようにしてあげてください!!あと、無事居酒屋をでられても、家までの道のりで側溝に落ちてしまう人が多々います!!転ばないように!!あと、駅のホームにも落ちないように!!まあ、けど、どうしても・・どうしても命が心配ならどうぞ、病院へ。遠慮せず来てください、わたしが笑顔で対応しますから(*δωδ*)」