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世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

柔らかな赦しの中の承認欲求

私はいま26歳だけれど、もう少し幼かった頃の私は、ものすごく必死に『理想の自分』を追い求めていた。

 

今だって多少なりとも『こうありたい』という目標だったり理想の自己像なんかはあるけれども、それはよく耳にする『承認欲求』という言葉を使うとすれば、今の私が求めているのは『自己承認』で、昔の私が求めていたのは『他者承認』だったんじゃないかな、と思う。

昔の私は執拗に『××(私)じゃなきゃダメなんだ』『どうしても××(私)が必要なんだ』という言葉を求めていた。それは友達、彼氏、先生、家族など回りのあらゆる人、モノ、事柄に対してだ。『承認欲求』という言葉の定義があやふやなので断定的に言及することは避けるけれど、相手に必要とされたいと思うことは、相手からの評価や承認が欲しいということに近いニュアンスだと思うので、これは他者承認を欲していたという言葉に置き換えてもいいと思う。この場合の、相手、というのは人だけでなく、仕事だったり、昔なら学校、大学だったり、そういった類のものにまで私は承認を欲していた。 

私じゃないといけない

『(相手が)私を選んだってことは、私が必要なんだ』

 

『でも、なんで私を選んだのだろう?』

 

相手に必要とされている自分、そこには自分が必要とされているだけの『理由』があるはずだ、と私は思い込んでいた。けれど、自分に見えているのは他人に比べてこれといって秀でたもののない自分だった。どこかに相手が私を必要とする『理由』があるはずなのに、自分はそんなものは持っていなかった。いくら探してもイイところなんて何もなかった。『他人と一緒』では意味がない。たとえば勉強ができたとしても、周りと同じくらいできていたらそれはどうしても『私』が必要である理由にはならない。それならば私じゃなくても、他の頭のいい○○ちゃんだっていいからだ。

探せば探すほど、見えてくるのはふがいない自分だけだった。他人と比べて特別なにかができるわけではない自分。けれども他人に必要とされたい。必要とされたい欲求は人一倍強かった。それならば、それに見合うだけの理由を探さなくては。でも探せば探すほど汚い自分が露呈してゆくばかりだった。

そうなってくると、ありのままの自分に『必要とされる理由』がないために、必死に『理由』を作りだそうと躍起になった。アイデンティティが欲しかった。自分を、自分のことだけを照らし出してくれるスポットライトが欲しかった。そのためにいろんなことをしてもがいてみた。『私を選んだ理由はなに?』と相手に理由を求めてしまうこともした。何とか他人と違うことをしようと必死にふるまったけれど、所詮それは付け焼刃で、本物の刃を持った相手とは勝負になんてならなかった。そう、そんなこと最初から、そんなこと最初から解っていた。解っていたのに。虚しいだけだって。解っていたけれど偽物でも幻でも刃を持って威嚇していないと、周りに飲み込まれてしまいそうで嫌だった、怖かったのだ。周りと同化して溶けていってしまうことが。

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私じゃなくても

24歳で大学を卒業して、働き始めた。

初めて、社会という場に出た。

働くことは、嫌じゃなかった。私にとって自分の仕事が与えられることは幸せだった。役割がある、名前がつけられる、ということは自分をとても安心させてくれることだった。とにかくそこにいることさえすれば、私という存在は勝手に社会の中に組み込まれていった。勝手に社会は私を必要としてくれているようだった。仕事をしてゆくなかで、それなりに忙しく、それなりに色んな経験をして、だんだんと『シャカイノシクミ』というものがみえてきた。もちろん経験の浅い私がみているのは社会の仕組みの入り口、入り口というか輪郭、ぼんやりとした輪郭だけなんだけれど、そんなものを眺めながら仕事をしてゆくなかで、こうやって仕事をして、大きな母体から給与をもらう職業ってなんなんだろうな、と考えることがあった。職場に行けば仕事があり、それをこなせばまた仕事が与えられ、その繰り返し、私という存在は確かに必要とされているのだけれど、たとえば私が急に体調を崩したとかで職場を離れなくてはならなくなったとしても、別に代わりとなる人はいる。別の人を雇って、私の穴を埋めることができる。いつか自分しかできない手術、なんてものができるようになればそれは唯一無二の存在となれるけれど、そんな風になれるひとはほんのほんの一握りだろうし、多くの場合代わりが立てれるようなポジションにいるだろう。

 

それなりに忙しく仕事をするなかで、ぼんやりそんなことを思うことが増えていった。けれど、それは決して、悲しみとか喪失感とかそういった負の感情の類ではなかった。そういうものなんだな、という一種の悟りのような気持ちなのだろうか。悟りともまた違うような気がする、充実感だったり小さな目標に達成する喜びだったり、そんなフレーバーが多くを占めているような感情だ。

その仕事は、私じゃなくても、他の人がしてもよかった仕事です。他の人でもできる仕事です。私じゃなくてもいい、そうなんだけれど、私じゃなくてもいいことを私がやったんだよ。ものすごく幼稚になってしまったけれど、文章にするとこんな感じの感情だ。

私であっても

それなりに忙しく毎日を過ごす中で、時折また昔のように、自分の存在をぼんやり考えるようになった。

充実感のような、なにかを達成するような喜び、そんな匂いのする小さな感情は、仕事だけでなくプライベートにも充満するようになっていた。大切な友達、大切な先輩、大切な家族、大切な誰か、そんな人たちと学生の頃のように頻繁に会うことができなくなっていって、1回1回出会える時間がとても貴重なので大切に思えてきて、『最近どうですか、元気でやっていますか』『うん、元気でやってる、最近はこんなことをしています』なんていう昔はバカにしていたようなテンプレートの会話がすごく重要な意味をもつようになってきて、けれども、そこに『私じゃなくてもいいんでしょう』という感情は、決してなかった。

 

私にとって、○○ちゃんといる時間はとても大切だ。○○ちゃんが、いまどんな風に過ごしているのか、楽しく元気でいるのか、ということは私にとって重要事項だ。けれども同等に、△△ちゃんといる時間も同じように大切で、同じように重要事項だ。それは◇◇ちゃんも、■■くんも、みんな大切でみんな同じように重要だ。

 

きっと私も同じようにその中に組み込まれていて、特別『私じゃなくてもいい』けれど、『私であってもいい』んだ、という感覚が、なんだかわからないけれどとても私を安心させてくれた。

 

求めるハードルが低くなったのだろうか、いや、それとはまた違うベクトルなんじゃないかと思っている。これは友達関係だけじゃなくて、あらゆる人間関係、人間相手ではないたとえば会社だったり職場だったり、あらゆるところで感じる。『私じゃなくてもいい、けれど、私であってもいい』という感覚。許されているような、赦されているような感覚。

『あなたじゃなくてもいい、けれど、あなたでもいいんです』

聞く人によっては物足りない言葉かもしれない。けれど自分じゃなくてはいけない理由を探して探してもがいてもがいてボロボロだった私にはあたたかい光のような言葉だった。自分じゃないといけない理由を探していたはずなのに、たどり着いたのは180度逆といってもいいような言葉だった。別に、それでもいい。それでもいいと思った。なんだっていい、ゆるやかに歩いてゆけるなら、それでいい。これから先まだ長い道のり、気持ちは軽い方がいい。なんでそう思うんですか、と聞かれても明確な答えは見つからないけれど、いま、私はこう思っている、それがすべてだ。

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この感覚の中で、私は今『自分はこうありたいなあ』と漠然と思い描いている、理想の自分、というものを。自分じゃなくてもいい、けれど、自分でもいいといわれる場所で、さらに『自分の理想』を語るのは自己満足でしかないと思うけれど、別にそれでいいと思っている。カチカチの彫刻のような理想ではなくって、明日笑ってる自分でいたい、みたいなそんなふわふわした理想、また、心の別の部分では、堅い刃のような資格もほしい、そんなかっちりした理想も持っている。今の私の承認欲求は、柔らかな赦しのなかにいる自分の、心の中にひっそりとある。