ただしい後輩の育て方
昨日はとある試験的な試験のデモ受験者として、試験を受けてきた。
そこで偉い感じの先生から、後輩の指導の仕方について教えてもらったのだけれど、そのスライドのなかで”マズローの欲求階層説”が紹介されていた。
マズローの欲求階層説は聞いたことはあったし、ピラミッドの図は見たことがあったけれど、これをいかに日常生活に活かすことができるかまでは考えたことがなかった。
マズローの唱える欲求には5段階あって、下から、つまり欲求レベルの低さから、生理的欲求→安心の欲求→所属と愛の欲求→承認(尊重)の欲求→自己実現の欲求、となっている。低いレベルの欲求が満たされないと、次の欲求は生まれないとされている。
非常に単純な話なのだけど、承認(尊重)の欲求は自己実現の欲求の下のレベルにあるので、『自己実現したい』という意欲は、承認(尊重)の欲求が満たされないと生まれないということになる。つまり、後輩に自己実現してほしかったら、まずは後輩に承認(尊重)欲求を満たしてあげる必要がある、ということだ。
つまり、後輩に一人前になって自分のやりたいことをみつけて大きく成長してもらうには、まずは『あなたはここで役に立っているよ』ということをしっかり伝えなければいけない。ついつい早く成長してもらいたくて、自己実現の欲求の段階を求めてしまうけれど、『はやく自分のやりたいことを見つけた方がいいよ』と急かす前に、まず簡単なことからしっかりできるようにしてもらって、自分は役に立っていると自信を持ってもらうことが先決なのだ。ついつい後輩を大きく育てたいあまり、簡単なことができても、こんなことで褒めても嬉しいかな?と思って褒めるのをやめてしまったり、もっと上のレベルのことができるようになってから褒めよう、と思って褒めるのをやめてしまったりしたことがある。
自分に置き換えてみても、自信がない状態でさらにやりたい事を探すのは無理だった。わたしがやりたい事を見つけたのも、2年目になってある程度仕事がこなせるようになってからの事だった。
後輩クン、ちゃんと、ついてこれてる?
後輩は可愛い、等しく可愛い。
と、言いたいけれど実際そういう訳にもいかないこともある、大人の事情というやつだ。もちろん意地悪なんかはしないけれど、大人になれば、干渉しない、当たり障りのない関係、表面上の付き合い、という便利なコミュニケーション法があり、それは実際社会生活を円滑に進めるうえで大事なことだと思う。
それでも、やっぱり、自分の直属の後輩は可愛い、ほぼ等しく可愛い。可愛いからこそ後輩には正しく成長してもらいたい。自分のしたいことを見つけて、自分が正しく選んだ道を、前へ前へ進んで行ってほしいと思う。そのためには正しく指導しなければならない。後輩を認めてあげよう、わかっていると思わずに、言葉や態度にして、君は必要なんだと伝えてあげよう。叱り方のコツも教えてもらった、私はまだ指導する立場としては未熟だから、これからは先輩として、正しい先輩になる方法を勉強していかなくてはいけない。
ところでここ数日、正しい、という言葉が自分の中で流行っている。便利な言葉だと思う。
ただしいtripの仕方
コーヒーが好きだ。
子供のころ、お母さんがコーヒーを飲んでいるのをみて『ひとくちちょうだい』といって『まだあかめちゃんには早いよ』と言われながらもひとくち飲んでみて、というか正確にはおそるおそるひとなめしてみて、『にがっ何このまずいのみものこんなのみものなんで大人はおいしそうに飲むんだろう自分は絶対大人になってもこの味がわかるわけない、こんなものおいしくない、絶対わかってやるもんか』という、やや大人に対抗意識燃やし気味な反応をしていたわたしも、いつの間にか立派なコーヒー中毒になっていました。正しく大人になれている。
この際コーヒーと頭痛の友好関係についてはひとまず置いておくとして、コーヒーは非常においしい。コーヒーはブラックが好きだ。たまにミルクだけ入れることもある。けれど砂糖は入れない。コーヒーは目が覚めるような気がする。コーヒーはなんとなくおしゃれになれるアイテムだ。コーヒーは砂糖を入れなければ太らない。コーヒーは正しく飲むと海外の雰囲気を味わえる。コーヒーからは海の向こうのにおいがする。
さいきんはFoxesのWhite Coatsをヘッドフォンで聞きながらコーヒーを飲むと正しくtripできる。
三人寄れば船、山に登る
三人寄れば文殊の知恵、という言葉があります。
わたしのこれまでの経験上この言葉を実感したことってなくって、基本的にことわざや故事のたぐいは『なるほどそうだなあ』と思うことが多いのだけど、やはり後世まで残っている知恵や考え方はそれなりに選別されて良いものが残るのだなあと思うのだけど、三人寄れば文殊の知恵、に関しては自分で実感もしなければ、これって実際どこかの現実世界で起きている事象で、日本のどこかの会議室では『やっぱり三人寄れば文殊の知恵だね』って言われているのかすごく謎で中国3000年の歴史を思わず疑ってしまうような世界三大不思議のひとつとして候補があげられているもののひとつなんですけど、わたしに関して言うと、これまでの浅い26年間の人生経験から言わせてもらうならば、『三人寄れば船、山に登る』という経験しかありません。
それはそれとして、この間の祝日に、同期と後輩と3人で美術館に行きました。
はじめはわたしが徳島ラーメンがどうしても食べたくなって前日にドタバタで誘って、どうせならなにか観光したいねということになって、わたしが徳島には大塚国際美術館っていうものがあるみたいだよここに行きたいよというわたしの意向で大塚国際美術館に行くことになったのに、同期が運転する行きの車の中で『美術館ってひとりで行きたいと思わない?』という話題を華麗にかますという傍若無人ぷりを発揮したわたしこそがホットペッパー少女です。
美術館はひとりで行きたいと思っていました。
けれどみんなで行くのも悪くないなと思ったのが学生の頃部活のメンバー数人で『直島』というアートを売りにしている観光島に行った時のことなんですけど、そこにはアートの島というくらいだから美術館がいくつかあって、その中の『地中美術館』というところにみんなで行ったんですけど、作品のなかにひとつに、だだっ広いコンクリでできた長い階段があってその上に大きな大きな球体がで~んと置かれている、といういかにもアートな作品があってそれを見てわたしはなにかを感じ取ろうと心を静かにしてそのアートに見入っていたのに部活のメンバーたちが『GANTZだ!』『GANTZだ!』と騒ぎ始め、ああもう静かにしてよいま絶賛美術鑑賞中だよと言っても『どうみてもGANTZの球だよすげ~ほんとにあったんだこれ割れて武器とかでてくるんじゃね?』というガヤには敵わずブーブー文句いうわたしもいつの間にかそのガヤの立派な一員になっていて『静かにしてください』と美術館のスタッフに注意されたという甘い夏の日の出来事がありました。
『GANTZ』と騒がれた作品。*1Curated by yossi via flickr.com
でもあんなこんな騒いだおかげで、アート作品がしっかり心に焼き付いているんですよね。ひとりで静かにじっと見るより、鮮明に、家に帰ってからも思い出せるんです。不思議なことに。全然真剣にみてないはずなのに、家に帰った後も余韻にひたれるんです。しっかり思い出せるんです。
だから大塚国際美術館で『ゲルニカってあの有名な騙し絵ですよね!』と後輩が自信満々に解説をしたことも、それに同期が『え・・え、違うくね?』と即否定できなかったことも、後輩に比べればまだ美術の知識があると自負しているわたしが日傘をさす女がルノワールの作品だと解説したことも、あまりにみんな美術の知識がなさすぎて3人集まっても全然文殊の知恵は発揮されず美術の海に漕ぎ出した船は華麗に山に登ったわけですけれど、その山のてっぺんから綺麗な瀬戸内海の海を3人仲良く眺められたのでやっぱり美術館はみんなでくるのも悪くないなと思った爽やかな秋の日の出来事でした。
きまぐれ☆ホットペッパー少女
大学時代の友人”あっちゃん”にいわれたセリフを今でもよく覚えている。
『あかめはさぁ、オチのつく話題を選んでしゃべってるよね。それって疲れちゃわない?無理して話題、選ばなくていいんだよ。風が涼しいね、とか、このごはんおいしいね、とかそういう他愛ない話、もっとしていいんだよ』
会話って疲れるなあと感じていた、その原因のひとつを解明できたシュンカン。
気づかないうちに、面白いって思ってもらえるような話題を、選んでいたんだな。だから疲れるし、会話って難しいと感じてしまっていたし、話題に困って沈黙に窮屈な思いをすることが多かったんだな。”あっちゃん”は、いつもわたしの心を的確についてくる。
でも、それに感動して”あっちゃん”に『このアジサイきれいだね!』って言ったら『で?オチは?』と言われるという一連の流れ。というオチ。
★★
ブログを書くときに似ていると思った。
オチだとか、勉強になることとか、そういうの選んで書き続けると、会話が疲れてくるように、きっと書くことに疲れてくるんだと思う。大阪人なんかは『オチのない話はするな』って言われて育つと聞いた。スパルタ教育や。スパルタ教育受けてないパンピーのわたしは『で、その話のオチは?』と言われると、オチのない話はしちゃいけないのかな、と無意識的に話題を選ぶようになってしまっていたんだろうな。
会話がそうであるように、ブログも、オチがなくても勉強にならなくても、ただただつらつらと読んでいたい、そんな気分のときも多いんだ。ふんふんとどうでもいい話を、秋の涼しい風に当たりながら聞くのが気持ちいいように、ホットコーヒーを片手に、ただ呼吸をしているような、ふうっと息を吐き出すように書かれたどうでもいいはなしを、眺めるのがすきなんだ。
★★
スターとか、ブクマとか、はずしちゃってもいいかなとも思うけど、最初からなければいらないけど、あるものを外すのもなんか違う、なんとなくそれは寂しい感じもするので、街角にあるホットペッパーみたいに、好きな時に読んでください、必要なければわざわざとらなくて結構ですよ、という感じでいたい。ホットペッパー少女でいたいんや。もう少女じゃないけどそういうこと言いたい気分。
なので小学校のときの読書カードみたいに読んだという形だけのハンコ、そんなのだいじょうぶ、わたしズボラだから誰がスターくれたとかみてないです。みてないわけじゃないけど、チェックしてないというか、どうぞなんでもどうぞという感じです。ブクマ書いてくれたらそれはみてます。わたしも毎日目を通すことができないので、そんな感じでつけてる、そんな感じのきまぐれスターでご勘弁を、と思う。
バリウム検査ってしんどいですか?
バリウム検査ってやっぱりしんどいですか?
『おうつしかえ』のid:banbanさんのこのエントリ。
以前にこのエントリを読ませて頂いて、『ああバリウム検査を受ける患者さんはこんなことに困っているんだ』と印象に残っていました。いまちょうど自分自身がバリウム検査を勉強しているので、ふと思い出したのでした。ばんばんさんは、バリウムのせいで便秘っぽくなって大変だったんですね。確かに、同じように言われる方は多いように思います。ばんばんさん、これに懲りずぜひまた健康診断受診されてください笑!
バリウム検査、という言葉に反応してしまう
こんな風にやっぱり医療関係のエントリにはアンテナがぴこん!と反応してしまいます。みなさんも自分の仕事関係のエントリには敏感にアンテナが反応しませんか?私がワーカホリックだからかな??
私はバリウム検査を受けたことはありませんが、バリウム検査をしたことはあります。オーベンが横に座って、私がバリウム検査で使う機械を操作するのをじっと監視しています。
『はい、じゃあそこでバリウムをひとくち飲んでくださいね~』
とマイクで患者さんに言います。
マイクが入っていない時に、『おい、この方は一口の量が少ない方なんだ。そういうのをちゃんとみて、少し多めにバリウム飲んでくださいと微調整しろ。マニュアル通りに読んだだけではダメだ』『はい』
『そこで左向きに回って頂きます』
とマイクで患者さんに言います。
マイクを切った途端に、『おい!この方の胃の形は左に回さなくても写真とれるだろ!ストップさせろ!』
『あ、はいそこで一度止まって頂きます~~!!』
当たり前ですが、ベテランのオーベンが行うのと同じ精度が求められます。オーベンがやってわかる病変を、私ではわからなかった、なんてことは許されませんからね。きちんとオーベンの監視のもと、オーベンが行うのと同じレベルの検査をしなくてはなりませんから、横から常に指導が入り続けます。
バリウム検査って結局なんなの?
いわゆる健康診断で受けるバリウム検査というのは、専門用語で『上部消化管造影検査』といいます。
上部消化管とは、食道~胃~十二指腸までのことを指します。口からおしりまでの長い消化管の、上の方ということですね。逆に大腸のことは下部消化管といいます。
で、造影というのがバリウムのことです。バリウムはレントゲンで見ると白く映ります。このバリウムが白く映るという特徴とバリウム自体の重さを利用して、胃の中などに怪しいものがないかどうかを調べる検査がバリウム検査になります。
バリウムを飲むと、まずその重さで胃の壁が引き伸ばされます。何も異常がなければびよーんと均等に胃の壁が伸びるのですが、たとえば癌などがあると胃の壁の伸びが悪くなります。その伸び具合を、くるくると患者さんに体位を変えてもらって、胃のいろんなところを伸ばしてみて、病変がないかをみているのです。
また、重要なのは、バリウムが一度とおって薄く胃の壁につくことです。きれいに薄くバリウムが『のる』と、胃の中のひだひだの輪郭がくっきりと浮かび上がります。そこで潰瘍がないか、ひだが太くなったりしているところはないか、などをみています。バリウムがたぷん、と胃に溜まっている様子も重要ですが、そのバリウムが一度ついて流れた後の部分にもう一度空気をためて観察するのがこのバリウム検査の重要な部分です。(これを専門用語では空気とバリウムの二重造影といいます。)
検査している側は、いろんな胃の形にあわせてバリウムをうまく流していい写真を撮ろうとします。胃の形って本当千差万別で、縦にびよんと伸びている胃下垂だったり、お辞儀をしているような瀑状胃と呼ばれる形だったり、さまざまな形があります。形が違えばバリウムの流れ方も変わるので、マニュアル通りではダメなんですね。そのために患者さんに右にまわるだの台を倒すだの、くるくると体位変換をして頂いてるのです。
ちんたらしていると、バリウムがどんどん下の方へ流れて行ってしまいます。そうすると写真で胃以外の部分も白く映ってしまって、見たいところにかぶるんですね。重要なところがみえなくなるので、検査にはスピードが求められます。一度下の十二指腸の方へ流れてしまったバリウムは戻せませんので、検査中にはよく『覆水盆に返らず』という言葉が頭のなかで点滅しています。『バリウム胃に戻らず』。
バリウム検査、検査する側は意外と忙しいんです
このスピードをあげることが意外と難しいというお話をします。
バリウム検査には、同時にあらゆる動作を求められます。
うちの機械の場合、まず右手で主となるカメラの位置操作をします。同時に撮影ボタンも右手にあります。写真のズームボタンも右手で操作します。
左手で患者さんのベッド倒す操作をします。そして撮影時には被ばく量を減らすために写真を絞るのですが、そのしぼり操作も左手でします。
右足にはペダルがあり、これで透視写真をだします。ずっと踏みっぱなしでは被ばく量が増えますから、なるべく踏む頻度は少なく抑えます。
左足にもペダルがあり、これを踏んでいる間はマイクがONになります。この右足と左足のペダルを逆に踏んでしまうと大変なことになります。右足の透視ペダルばかりに集中して、うっかり左足のマイクペダルを踏みっぱなしにしてしまうと、オーベンの指導の声が部屋に響いてしまいます。
視線を移す場所は主に3か所あります。
ひとつは患者さん。苦しそうにしていないか、きちんと指示通りの体位変換ができているか、いろいろ見ます。
機械には画面が2つあり、ひとつはリアルタイムで見ている画像、もうひとつは撮った写真の画像です。リアルタイムで見て、パシャっと撮って、できた写真をよくみて怪しいところがあれば体位変換などして同じ場所をもう一度みなくてはなりません。
この2つの画面をいったりきたりして病変を探しつつ、常に患者さんの状態もみておく必要があります。
両手両足の操作と、視線3か所、意外と忙しい検査なんですね。
バリウム、頑張る
胃の中を見る検査といったら、バリウム検査の他に『胃カメラ』(正確には上部消化管内視鏡検査、といいます)が有名ですね。『胃カメラがあるならバリウムは必要ないの?』と思われるかもしれません。
胃カメラは確かに胃の中を直接見るので、病変を確実にみられます。胃の粘膜のただれとか、色調とか、そういったものに強い検査です。バリウム検査の強みは、上に書いたように壁の伸び具合など、胃の柔らかさを調べるのに強い検査です。胃のおおまかな形だったり、胃に重さをかけて動きをみたりするができます。しんどさがどちらが上かといわれると人によるかもしれませんが、一般的にバリウムの方が少ないでしょうか。それぞれ強みが異なっているので、どちらがいいと一概にいうのは難しそうです。一般的にはバリウム検査でひっかかったら胃カメラ、というのが多いでしょうかね。胃カメラはバリウム検査の完全上位互換の検査、というわけではないんですね。
今後、バリウム検査を受ける皆様へ。
バリウム検査は、バリウム飲むのもしんどいでしょうし、くるくる回されて時間がかかるとイライラされるかもしれません。けれど、時間がかかるのはじっくりみている証拠、だと思って、どうぞ15分ほどこらえてください。しっかり異常がないか、みさせて頂きます(*- -)(*_ _)そして私自身も機会があれば一度飲ませて頂くべきでしょうね。
以上ちょっと長いバリウムのお話でした。読んでいただき、ありがとうございました。
女医さんのJOYカバン~~
わたしはひとのかばんを見るのが大好きです。
雑誌とかで有名人さんの特集されてるのみるのも好きだし、こうやって今週のお題で特集されちゃったりして、こっそりひとのかばんがのぞけちゃうの、すっごいステキと思う。
これ、わたしが今ふだん持ち歩いてるかばん。
これともうひとつ、ひと回り小さい黒と白のベーシックな色合いのハンドバッグを使いまわしてます。
自分なりのかばんのこだわりとしては、まず、色、ですかね。
何にでも合うベーシックな色のかばんと、ちょっと派手なパステルカラーのかばんを選びます。たいていふたつがスタメンでいます。写真はもちろん派手な方のかばん。
ベーシックな色のかばんは、長く使えるように、ちょっと値が張ってもいいものを選びます。派手めの冒険タイプのかばんは、最悪失敗を考えてそんなに高くないものを選びます。ものがいいわけではないので壊れやすいけれど、色んな色試したいし、それでいっかなーと思う。
あとは、やっぱり収納力ですかね。
財布と化粧ポーチとケータイ、鍵は最低でも入るサイズがいいです。(化粧ポーチが大きいので鬼門…)
クラッチバッグもカッコいいけど、片手がどうしても塞がっちゃうのが残念、わたしは持っていません(´;ω;`)買い物とかいったらどこかに置き忘れそう、だからクラッチバッグ持ってるひとは慎重なひとだと思う。
中身はこんな感じ(=´∀`)人(´∀`=)けっこう入るでしょ!?
財布は長財布をずっと使っていたけれど、白衣のポケットにも入るサイズのが欲しくってこれを買ったら、結局これがスタメンになってしまったという例…エナメル素材のが汚れにくくて、使いやすいですね。
手帳のとなりにある、蛍光ピンクのやつは、名刺入れです。ペットボトルカバーは、この今使ってるリラックマのやつ、ちょっと前までお〜いお茶のオマケについてたやつなんですけど、たまたま買って使ってみたら、便利過ぎて手放せなくなった例(///▽///)これは・・・!と思ったから、期間中はお〜いお茶毎日のんで、いま家にリラックマのペットボトルカバーのストックめっちゃある。
青いチューブはハンドクリームです。職業柄よく手を洗うから手は荒れます(´;ω;`)あと、一冊は本が入ってる(むき出し)。このせいで結構かばん重くなる。今読んでるのは痛みの本。
ピンクのうさぎがフラフープ持ってるやつはスマホカバー、もちろん普段はスマホ入ってるんですけど、この写真撮るために使ってるから写真では空ケースです。
これ、いつも車に積んでる巨大バッグ!とその中身!
いつ当直きてもいいように……(´;ω;`)
一晩越せる道具が入ってます。お風呂道具、下着、タオル、寝巻き用のラフな着替え、白衣。聴診器は普段は病院に置いてあるけど、外部病院に行ってる時はかばんに入ってます。あと、すっぴん隠しのマスク、これ最重要事項。
あとはノーパソ、iPad、当直や救急向きの本、のど飴とか。
で、なぜかかばん開けたらチューハイ入ってたけど、これは全然当直には不必要。なんで入ってたのか謎だ……
こんな感じです!わたしのかばん。
ちなみに車にはいつでも泊りになっていいように私服もワンセット吊るしてある。あ、泊りって彼氏用じゃなくて、病院用です(´;ω;`)ワーカホリーーック!
皆さんはどんなかばん使ってますか?ლ(╹◡╹ლ)
今週のお題「私のかばん」
っていま気づいたけど、もう振り返り段階にはいってる笑!
出遅れた~~~~
柔らかな赦しの中の承認欲求
私はいま26歳だけれど、もう少し幼かった頃の私は、ものすごく必死に『理想の自分』を追い求めていた。
今だって多少なりとも『こうありたい』という目標だったり理想の自己像なんかはあるけれども、それはよく耳にする『承認欲求』という言葉を使うとすれば、今の私が求めているのは『自己承認』で、昔の私が求めていたのは『他者承認』だったんじゃないかな、と思う。
昔の私は執拗に『××(私)じゃなきゃダメなんだ』『どうしても××(私)が必要なんだ』という言葉を求めていた。それは友達、彼氏、先生、家族など回りのあらゆる人、モノ、事柄に対してだ。『承認欲求』という言葉の定義があやふやなので断定的に言及することは避けるけれど、相手に必要とされたいと思うことは、相手からの評価や承認が欲しいということに近いニュアンスだと思うので、これは他者承認を欲していたという言葉に置き換えてもいいと思う。この場合の、相手、というのは人だけでなく、仕事だったり、昔なら学校、大学だったり、そういった類のものにまで私は承認を欲していた。
私じゃないといけない
『(相手が)私を選んだってことは、私が必要なんだ』
『でも、なんで私を選んだのだろう?』
相手に必要とされている自分、そこには自分が必要とされているだけの『理由』があるはずだ、と私は思い込んでいた。けれど、自分に見えているのは他人に比べてこれといって秀でたもののない自分だった。どこかに相手が私を必要とする『理由』があるはずなのに、自分はそんなものは持っていなかった。いくら探してもイイところなんて何もなかった。『他人と一緒』では意味がない。たとえば勉強ができたとしても、周りと同じくらいできていたらそれはどうしても『私』が必要である理由にはならない。それならば私じゃなくても、他の頭のいい○○ちゃんだっていいからだ。
探せば探すほど、見えてくるのはふがいない自分だけだった。他人と比べて特別なにかができるわけではない自分。けれども他人に必要とされたい。必要とされたい欲求は人一倍強かった。それならば、それに見合うだけの理由を探さなくては。でも探せば探すほど汚い自分が露呈してゆくばかりだった。
そうなってくると、ありのままの自分に『必要とされる理由』がないために、必死に『理由』を作りだそうと躍起になった。アイデンティティが欲しかった。自分を、自分のことだけを照らし出してくれるスポットライトが欲しかった。そのためにいろんなことをしてもがいてみた。『私を選んだ理由はなに?』と相手に理由を求めてしまうこともした。何とか他人と違うことをしようと必死にふるまったけれど、所詮それは付け焼刃で、本物の刃を持った相手とは勝負になんてならなかった。そう、そんなこと最初から、そんなこと最初から解っていた。解っていたのに。虚しいだけだって。解っていたけれど偽物でも幻でも刃を持って威嚇していないと、周りに飲み込まれてしまいそうで嫌だった、怖かったのだ。周りと同化して溶けていってしまうことが。
私じゃなくても
24歳で大学を卒業して、働き始めた。
初めて、社会という場に出た。
働くことは、嫌じゃなかった。私にとって自分の仕事が与えられることは幸せだった。役割がある、名前がつけられる、ということは自分をとても安心させてくれることだった。とにかくそこにいることさえすれば、私という存在は勝手に社会の中に組み込まれていった。勝手に社会は私を必要としてくれているようだった。仕事をしてゆくなかで、それなりに忙しく、それなりに色んな経験をして、だんだんと『シャカイノシクミ』というものがみえてきた。もちろん経験の浅い私がみているのは社会の仕組みの入り口、入り口というか輪郭、ぼんやりとした輪郭だけなんだけれど、そんなものを眺めながら仕事をしてゆくなかで、こうやって仕事をして、大きな母体から給与をもらう職業ってなんなんだろうな、と考えることがあった。職場に行けば仕事があり、それをこなせばまた仕事が与えられ、その繰り返し、私という存在は確かに必要とされているのだけれど、たとえば私が急に体調を崩したとかで職場を離れなくてはならなくなったとしても、別に代わりとなる人はいる。別の人を雇って、私の穴を埋めることができる。いつか自分しかできない手術、なんてものができるようになればそれは唯一無二の存在となれるけれど、そんな風になれるひとはほんのほんの一握りだろうし、多くの場合代わりが立てれるようなポジションにいるだろう。
それなりに忙しく仕事をするなかで、ぼんやりそんなことを思うことが増えていった。けれど、それは決して、悲しみとか喪失感とかそういった負の感情の類ではなかった。そういうものなんだな、という一種の悟りのような気持ちなのだろうか。悟りともまた違うような気がする、充実感だったり小さな目標に達成する喜びだったり、そんなフレーバーが多くを占めているような感情だ。
その仕事は、私じゃなくても、他の人がしてもよかった仕事です。他の人でもできる仕事です。私じゃなくてもいい、そうなんだけれど、私じゃなくてもいいことを私がやったんだよ。ものすごく幼稚になってしまったけれど、文章にするとこんな感じの感情だ。
私であっても
それなりに忙しく毎日を過ごす中で、時折また昔のように、自分の存在をぼんやり考えるようになった。
充実感のような、なにかを達成するような喜び、そんな匂いのする小さな感情は、仕事だけでなくプライベートにも充満するようになっていた。大切な友達、大切な先輩、大切な家族、大切な誰か、そんな人たちと学生の頃のように頻繁に会うことができなくなっていって、1回1回出会える時間がとても貴重なので大切に思えてきて、『最近どうですか、元気でやっていますか』『うん、元気でやってる、最近はこんなことをしています』なんていう昔はバカにしていたようなテンプレートの会話がすごく重要な意味をもつようになってきて、けれども、そこに『私じゃなくてもいいんでしょう』という感情は、決してなかった。
私にとって、○○ちゃんといる時間はとても大切だ。○○ちゃんが、いまどんな風に過ごしているのか、楽しく元気でいるのか、ということは私にとって重要事項だ。けれども同等に、△△ちゃんといる時間も同じように大切で、同じように重要事項だ。それは◇◇ちゃんも、■■くんも、みんな大切でみんな同じように重要だ。
きっと私も同じようにその中に組み込まれていて、特別『私じゃなくてもいい』けれど、『私であってもいい』んだ、という感覚が、なんだかわからないけれどとても私を安心させてくれた。
求めるハードルが低くなったのだろうか、いや、それとはまた違うベクトルなんじゃないかと思っている。これは友達関係だけじゃなくて、あらゆる人間関係、人間相手ではないたとえば会社だったり職場だったり、あらゆるところで感じる。『私じゃなくてもいい、けれど、私であってもいい』という感覚。許されているような、赦されているような感覚。
『あなたじゃなくてもいい、けれど、あなたでもいいんです』
聞く人によっては物足りない言葉かもしれない。けれど自分じゃなくてはいけない理由を探して探してもがいてもがいてボロボロだった私にはあたたかい光のような言葉だった。自分じゃないといけない理由を探していたはずなのに、たどり着いたのは180度逆といってもいいような言葉だった。別に、それでもいい。それでもいいと思った。なんだっていい、ゆるやかに歩いてゆけるなら、それでいい。これから先まだ長い道のり、気持ちは軽い方がいい。なんでそう思うんですか、と聞かれても明確な答えは見つからないけれど、いま、私はこう思っている、それがすべてだ。
この感覚の中で、私は今『自分はこうありたいなあ』と漠然と思い描いている、理想の自分、というものを。自分じゃなくてもいい、けれど、自分でもいいといわれる場所で、さらに『自分の理想』を語るのは自己満足でしかないと思うけれど、別にそれでいいと思っている。カチカチの彫刻のような理想ではなくって、明日笑ってる自分でいたい、みたいなそんなふわふわした理想、また、心の別の部分では、堅い刃のような資格もほしい、そんなかっちりした理想も持っている。今の私の承認欲求は、柔らかな赦しのなかにいる自分の、心の中にひっそりとある。