かわぞいさんに会った
先週の土曜日にかわぞいさん(id:kkzy9)にお会いしました。詳しいことはかわぞいさんが記事にしてくれています。ちなみにお会いしたのは土曜日の夜で、金曜日の夜から京都入りしており、その夜は友人(39)と京都のレズバーに行っていた。かわぞいさんに言わせるとこういう行動は『わけがわからない』ようだ。
記事にも書いてあるように、以前からお互いのブログの存在は知っていて、かわぞいさんはよくわたしのブログにかなり鋭く的確な突っ込みをしてくれており、またその多くはわたしの拙い、あるいは意図的に文章の流れにある穴、そんなものを埋めるような質問をされたりしていて、なんて分析力の高い方のだろうと思っていた。そしてこんなにも丁寧にわたしのブログを読んでくださっていることが素直に嬉しかった。
かわぞいさんのブログ更新頻度はかなり高く、海外情勢のお話や読まれた本の感想、ワーキングホリデイや海外放浪の旅のこと、大概はわたしの狭い世界では遭遇しないような話ばかりで、かなり興味を持って眺めていた。
会うまではとっても緊張してました
実際にお会いすることになることが決まった時、わたしは正直なところ幻滅されるのではないかと恐れていた。かわぞいさんは上記の記事にあるような印象を、わたしのブログから受けておられたとのことであった。
人物の印象としては、多分善人なんだろうなとか、頭がクリアな人なんだろうなとか、物事を公平に見て人の気持ちを尊重しつつ、他人の気持ちは理解できないという前提も忘れない明晰な人なんだろうと感じていた。医者だし頭いいし、それでいて他人に対してフェアで人の気持ちを尊重する人格者、わりとスーパーマンなイメージだった。
お会いする前に何度か『話すのが極度に苦手です』ということはお伝えしていた。実際の会話となると、うまく自分の言いたいことが伝わらないのだ。あれから少し考えてみたのだけれど、どうもおそらくわたしの感情というものはかなり遅れてやってくるようだ。悲しみも、喜びでさえも、自分の感情というものを理解するのにかなりの時間を必要とするのだ。文章にしていると自分の中で徐々に感情や思考が整理されてきて、わたしはこう思っていたのだということが分かって、逆にそれはそういう過程を経ないとなかなか自分のことであるのに、自分の感情が理解できない。
まあ、そしてもちろんのことであるがわたしは全くスーパーマンではない。ただ物事をフェアにみるだとか、自分というものを他人に全くすっきり理解してもらうなんていうことは幻想で、けれど少しでもそこに近づけるように相手の気持ちを慮って接するだとか、結果に対して常に原因を求める思考回路だとか、そういうものは確かに持ち合わせて(いようと努力して)いるつもりだ。そういう部分はブログにするとまずまず伝わっているのだと嬉しかった半面、やはり直接お会いした時にそれが果たして初対面のかわぞいさんにうまく伝わるのだろうかということは最大の懸念材料だった。
わたしと『鈴木あかめ』とのギャップ
文章と人物の印象がここまで違うものかと思った。会ってさらっと話してみただけだと、ブログとイメージが一致しません。同一人物だとわからないと思う。
僕がいつも通りすごくいろいろ質問をして相手の目を見ていたから、目が印象的だった。お疲れなのか、でかい目が血走っていた。もしかしてアカメって名前そこからとったのか?お母さんが美人だという話をブログに書かれていたから、多分この目はお母さん譲りなんだろう、まつげもすごかった。ほうきみたいだった。
かわぞいさんは実際にわたしの顔面をみられた訳なのでよくお分かりだと思うけれど、やっぱりそうかと予想はしていたれど、実際のわたしという人物と、ブログ上の鈴木あかめにはかなりの乖離が存在することがこれではっきりとした。
自分の顔は鏡でしかみられないけれど、毎朝鏡を見るたびに『これが本当にわたしなのか』と思う。そして内面の自分と外見の自分に大きなギャップ、違和感を感じている。これが白髪交じりの神経質そうなおっさんが鏡の中にいたら、何となく納得できる。たまに、本当はわたしは白髪交じりの神経質そうなおっさんで、何かの拍子にこの体に入り込んでしまったのではないかとすら思う。世界のどこかで28歳の女の子がわたしの代わりに白髪交じりのおっさんになっていて毎日嘆いている姿を想像すると胸が痛む。見た目は28歳の女の子なのでそのようなメイクやファッションをしているけれど、内面はどう考えても28歳の女の子ではないような気がしている。これは自分の中でかなり大きな問題で、端的に言うとわたしはわたしの外見があまり好きではない。あまり好きではないどころか、大きなコンプレックスだ。このブログに書いているようなことを自らの口から発するところを想像すると、無性に違和感を感じ、おそらくうまく伝わらないだろう、もしくは何言ってんだこいつくらいにあしらわれそうで、結局黙ってしまう。実際そういう経験を何度もしてきて、もう自分の意見をうまく言えない人間になってしまった。例えるなら、ローラのような風貌の喋り方を持つ人が、池上彰風に世界情勢について論じている感じだと思う。たぶん視聴者は『ローラ頑張ってるな』とか『台本見てやっているのかな』と思うだろう。それはローラの見た目に惑わされている、雰囲気にのまれて第一印象で中身を連想しているせいなのだ。人は見た目が9割とか10割とか言われているけれど、確かに人は、ましてや初対面であれば、ある程度その人の容姿からその人の持つ思考回路や知識量、経験値や無意識下であれ自分との上下関係のような立場でさえ、決めてしまっているように思う。
雰囲気が本人の中身と不釣り合いなのだ。それが良いとか悪いとかそういう話ではない。ただその雰囲気に惑わされて、超理性的な中身にまで到達しなかった人は、この人のことを誤解するだろうなと思った。
(中略)
あかめさんの感情表現は、ブログ上の文章においていかんなく発揮されている。だから、ブログ上のあかめさんと眼の前にいる人物を重ねて、その言葉から感情を補完してみようとするが、うまくいかない。むしろ、文章における感情のほうが擬態でないかとさえ思えてきた。
かわぞいさんはこのように表現してくださっている。けれど自分が超理性的という評価を与えられるべき人間である自信は一貫して無い。
会話中、ところどころ相手のペースについていけなかった。相手の中では首尾一貫している話が、こちらからは飛んでいるように聞こえる。そして最後に話がつながると「あ、今の話全て繋がっていたんだ」ということになって驚く。
話がとぶということについては、たまに指摘を受けることがある。書かれているように自分の中ではいくらかの過程を経て出た言葉であっても、どうやら相手には唐突に発せられたずれた言葉に聞こえるらしい。流れるような会話の中でよくその流れを止めてしまうことがあるので、大勢の人と喋るのは苦手だ。黙ってみんなが笑っているところでワンテンポ遅れて笑っているのがわたしです。一対一ならそれなりに喋ることはできると思う。ただそれでも喋るとあほっぽいと言われるし、もう色々諦めている。わたしの周りの友達の多くは、あほっぽいけど意外と喋ってみると普通とか、あんまり何考えているか分からないけれど行動だけ見るとぶっ飛んでるやつ、なのになぜかちょっと病んでいて結局よくわかんないやつ、とかそんな印象を持っているのだと感じる。もう、色々と諦めている。
文章ほど洗練されていてクリアな人ではない!!
一つわかったのは、本人は文章ほど洗練されていてクリアな人ではなかった。その粗が魅力的でおもしろかった。でもそういう部分まで表に出してしまうのは、おそらく生き方として向いていないと思うから、そのあたりは慎重なままでいいと思います。
かわぞいさんが最終的にこのような評価をしてくれたことは素直に嬉しく思った。文章がそれほど洗練されている自信はないし、わたしは極度に自己評価の低い人間なのだ。
話している間はほぼ終始かわぞいさんから受ける質問についてわたしが答えるという形式だったので、それなりに喋ることができた。というか、携帯のメモにずらーっと質問が並んでいて驚いた。未だにわたしの何がかわぞいさんにそれほどの興味を持たせているのかどうか不思議で仕方がない。質問はこれまでしてきた経験や周囲の人、好きなことや嫌いなこと、医者としての患者への接し方、質問を聞く感じだと、『超理性的』なわたしが患者さんを助けたいと特に報酬なく奉仕しているということにかなり疑問を持たれているようだった。あるいはわたしの『感情の振れ幅』つまり理性的でないことについては深く突っ込まれた。かわぞいさんのブログの印象から、わたしはクールな口数が少ない方という印象を持っていたので、まくしたてるように喋る姿は少し意外だった。(それはこの会話が面白すぎたからとのことではあったようだ、普段はやはりそれほど喋る方ではないらしい。)わたしの方はわたしの方で、1か月分くらいは喋ったのではないかと思う。
お話した内容や、それに付随することなど、何となく書きたいことはまだあるけれど、おいおい時間をかけてまた記事に出来たらいいなと思う。このようにブログを通じて知り合った人と直接お会いして喋るという機会は初めてだったけれど、とてもいい経験になった。楽しかったです。またこんな機会があればいいと思う。そういえば途中でお気に入りのネックレスが切れてしまうというハプニングが起きたのだけれど、かわぞいさんはそれを直してくれるお店があるということまで教えてくれてとても親切だった。本当にありがとうございました。
麻雀の思い出
はじめて麻雀を覚えたのは中学生の頃のことだった。といっても家にあったパソコンにたまたま父親がいれていた麻雀ゲームをやってみたくらい、それがわたしと麻雀との初めての出会いだった。でも相手はパソコンのAIで、わたしがルールをあまり分かっていなくても勝手に『リーチ』ボタンが点灯したり、『鳴く』ボタンが点灯してそれを押してみたりしたらあがろうと思っても役がなくてあがれなくなり何であがれないのか分からないとか、そんな感じで決して麻雀が上手くなることはなく、そして麻雀の楽しさを知ることもなく、その頃ほんのたまに暇つぶし程度にしたくらいで、大学生になる頃には麻雀のことは忘れてしまっていた。
大学生になると、浪人上がりや男子校出身の男の子たちが中心となって同級生が徹マンをしたりし始めて、そういえば昔ちょっとやったことがあったな、くらいのことを言ったらそのままメンツ探しのときに誘われるようになって、そうこうしているうちにルールや打ち方を覚えるようになって、麻雀が好きになっていった。
なんで麻雀を好きになったかという理由は色々あるけれど、ひとつは4人でいるけれどあまり喋らなくてもいいことだった。たいていてづみで誰かの家でやることが多かったけれど、テレビではひたすらアニマックスが流れていてドラゴンボールとかやっていて、わたしはあまりドラゴンボールとか知らなかったけれど知っているはずの男の子たちも別にそれを見る風でもなく、時折誰かが長考に入るとそれを眺めたりして、持ち寄ってきたポテチとか四角くて安いチョコレートを食べたりしながら次のテストのヤマとかをぽつぽつ話したり、誰かが早上がりした局では、他の子が跳満とかそのくらいの手のリャンシャンテンを開きながら『あ~これとこれが来ればな~』とかいって自分が引くはずだった牌を山からひとつひとつめくりながら言っていて、『こっちは役満手だったよ・・』とか思いながらわたしは流れた局で自分の手牌を晒すのが大嫌いなのでパタンと倒して『惜しかったね~』とか言ってザラザラ牌をかき混ぜたりしていた。最初の捨て牌が『北、西、北』と並んだ時その子が唐突に『ト、マ、ト』と言い始めて、ほんとうどうでもいい事なんだけれど、夜中のテンションになっていたわたしたちはなぜかそれがとてつもなくツボに入って爆笑したりして、『北、九萬、白、一索、西』の子が『コ、ロ、ン、ブ、ス』とか言ってそんなこと言い始めたら何でもありじゃんてことになってまた爆笑して、ほんとうどうでもいい事だったけれど可笑しいくらい楽しかった。
麻雀は運ゲーなのかそうではないのかという事に関してはわたしは個人的に100%運ゲーではないと思っている。ただ、運要素は他の将棋や囲碁などと比べると圧倒的に高い。一半荘くらいだったら、初心者が玄人に勝つことは十分ありうるだろう。けれど百半荘、千半荘とか統計をとればそれは絶対玄人の方が勝率は高くなって、それが麻雀が強い人という事になるのだと思う。モンド杯とかそういうのに出ているプロとかそれに準ずる人の強さはもはやわたしには判断ができない。麻雀の打ち方で大きく『オカルト派』と『デジタル派』に分けるとするとわたしは今風のデジタル派で、でも完全にデジタル派という訳ではなく、オカルト:デジタルが2:8くらいの打ち方をしていると思う。デジタル派というのが徹底的に牌効率をつきつめていく打ち方という認識でいいとしたらそれはコンピューターと変わらないのであって、別にそれを非難するつもりはないのだけれど、(天鳳などのネット麻雀はよく知らないけれど)実際目の前で一緒に打っている相手の癖とか弱点をついていくために、たまに牌効率を無視した打ち方をしたりはする。あと、わたしは大学生の頃に出た学生の麻雀大会でたまたまゲストで来られていたチートイ王子こと土田浩翔氏に偶然自分の局を後ろから見て頂けたことがあって、(王子は大会会場をうろうろと参加者が打っているのを見て回っていたのだった、なので本当にに偶然)今でも忘れられないのだけれど、わたしはその時トップ目で、逃げ切れればいっちゃという局で、対面の相手が早上がりの鳴きを仕掛けてきていて、わたしはベタオリすることはできた手牌だったけれど回す形で手を変え、対面から出たドラを鳴き、薄いところを捨て、その後は少々運だよりで数巡安牌を引き、最終的にもう一回対面から出たドラで上がったという結末を迎えて無事いっちゃをとれた。リスクはあったけれど、そこで対面の仕掛けに乗じて仕掛けなければいっちゃはとれていなかったと思う。その後になんと土田氏から『素晴らしい上がりでしたね』と声を掛けて頂けたのだった。わたしは舞い上がるくらい嬉しくて休憩時間に近くのコンビニで色紙を買ってきて土田氏にわたしの名前入りのサインをもらった。そこからさらに少し打ち方がオカルト寄りに染まってしまったと思う、そしてチートイも以前より積極的に狙うことが増えたような気がする。
その時の全国大会での局はなぜかどれも劇的で、今でも忘れられないでいる。その大会は大学対抗というスタンスで、地方大会を勝ち上がった同大学のペアが、2人合わせたスコアで競うというペア戦の大会だった。そして、その大会だけのルールというものがあって、細かいことはたくさんあったけれど、まず、戦う相手がはじめから番号で決まっていた。もちろん同じ相手とは二度は当たらないようになっている。四半荘戦で、起家が一回ずつずれていくというもので(つまり四半荘のうち一回は起家スタート、そして南家スタート、西家スタート、北家スタートということになる)ただ一半荘50分という時間制限があるので、北家スタートだと親が来ないままその半荘が強制的に終わってしまうということがあった。これはかなり恐怖で、最終戦(四半荘目)で上位の人たちは残り時間を気にするため、早く切らない相手にピリピリするということになるのだった。参加者は80人前後だったように思う。わたしは麻雀がそう強い方だとは思っていないけれど地方選を運ゲーで勝ち進むことができた。そして、全国大会でもその土田氏にみて頂いた半荘を含め順調にいっちゃを重ねてゆき、全国大会も三半荘終えた時点で暫定順位が張り出されたのだが、なんと三位だったのだった。それはつまり、最後の半荘戦でいっちゃをとれば個人入賞できる(ペア戦だけれど個人戦三位以内は表彰されるのだった)位置につけていたのだった。思ってもいないことだったけれど、ここまできたら個人入賞したいと思った。
最悪なことに最終戦(四半荘目)は北家スタートだった。何としてでも自分に親を回さないといけない。けれどこの時点でだいたいの順位は決まっているので、同卓した人たちはどうやらそれほどの順位ではなかったようで、もういいよね~疲れたね~みたいなムードになっていた。これはいけない、と思ったけれど同卓した人たちはわたしが個人入賞を狙っているということなんて分からないため、のほほんムードの中『早く切って下さい』とも言えるはずもなく、ひとり悶々としていた。と、最初の局で親が早めのリーチをかけてきた。わたしもそれなりのいい手だった。捨て牌一列目くらいのリーチだったので安牌らしき安牌もない。ただ、最初の局から大へこみする訳にもいかない。困ったときの西だ。リーチ後一発目、わたしはこんなときのためにとっておいた左端の西をためらうことなく切った。すると間髪おかず、
『あ、すいません・・それ、ロンです・・』
パタン、とリーチ者が申し訳なさそうに手牌を倒した。
えええ~~~~!!西があたるということは・・まあ、七対子だった。一発、しかも裏も乗って(チートイは必然的に裏うらになるし)わたしは愕然とした。つちだぁ~~~~!!(これはやつあたり)
『そっかぁ・・西があたっちゃうなら仕方ないですね~、はは』とか笑顔で点棒を渡したけれどわたしははらわたが煮えくり返りそうなほどの怒りを抱えていた。西なんかであたるなよ!!でもそれはわたしもやることであるし、自分が相手の立場だったら絶対西で即リーだし、誰を攻めるわけにもいかない(もちろん王子を攻めるわけにもいかない)。ただ、この振り込みは大きかった。わたしはかなり焦っていた。けれど焦るほど、そして欲を出すほど麻雀の女神はこちらを振り向かなくなり、のほほんとしたムードのまままったり進んだ最終戦はわたしに親が回ることなく、時間切れであっけなく終了を迎えたのだった。
全国大会は、結局個人戦7位で終わってしまった。ただこれはペア戦で、たいてい片方が個人戦一桁順位をとっていればペアでは入賞できるくらいの位置にはいけるはずなのだけれど、わたしのペアは不運なことに『役満卓に二回同卓した』と死にそうな声で言っていて可哀そうなくらい悲惨な順位をたたき出していて、わたしの怒りや悲しみはどこかへ行ってしまった。ペアの彼はわたしよりはるかに麻雀がうまく、オカルト:デジタルが0:10くらいのストイックな打ち方をする人だったので、ほんとうに仕方なかったんだろうなと思ったし、王子にもサインをもらったし、そもそもわたしに不相応なくらいの上出来な順位だったので、彼の役満に二回も同卓したという面白おかしいエピソードを延々と聞くことができたので総じていい思い出になったのだった。
社会人になってからほとんど麻雀をする機会がなくなってしまったのが少し悲しい。麻雀はいつでもわたしの味方でいてくれるような気がする。麻雀は少し悪いことを教えてくれる悪友のような夜の住人だ。たまに心が不安定な夜はわたしを手招きして呼んでいる。
童顔と鳥貴族
昨日初めて鳥貴族というお店に行ってみた。
なぜ鳥貴族を選ぶことになったかというのはたまたま歩いていたら目に入ったからというのもあるのだけれど、わたしも、そして隣を歩いていた友人(若槻千夏に似ているのでちーにゃんとする)も金欠だったからというのが大きな理由だった。
ちーにゃんは同じ病院で働いている看護師さんだ。ちーにゃんはわたしが関わっている神経内科の病棟で働いていて、わたしと同い年の28歳だ。去年の4月に初めてこの病院に赴任して、誰も知り合いのいないナースステーションでわたしがひとりオロオロしていたところを(初めての職場でのナースステーションという場所はとてつもなく精神力を削られる場所なのだ)一番最初に話しかけてくれたのがちーにゃんだった。
ちーにゃんは人懐っこい笑顔と裏表のない性格で花に例えるならひまわりのような女の子だった。背が小さくてリスのようにもみえる。そしてかなりの童顔だ。昨日は笑点が好き(しかも毎週録画をしているらしい)ということをカミングアウトしてきて、最近は『木久扇さんが新しい話題についていけていないようで見ていて辛い』と言っていた。童顔の悲しそうな顔で木久扇さんの心配をしている姿はなんだか笑えて吹き出してしまった。
ちーにゃんのおかげで得をしていることといえば、ついでに一緒にいるわたしも若くみられることだった。
昨日鳥貴族に行ったとき、わたしたちのテーブルを担当してくれた店員さんは、インド系の顔をした、おそらくわたしたちよりも若そうな、『ミジェル』という名札を付けた男の子だった。ミジェルは若くて日本語もままならない感じだったけれど、衛生管理責任者の名札も付けていて驚いた。他に接客対応をしていた店員さんも軒並みインド系の顔をしたひとたちで、グローバルな雰囲気だった。メニューには『全商品国産です!!』と大きく書かれていて、なんとなく複雑な気持ちになった。
わたしたちはまず、シャンディガフを頼むことにした。ミジェルに『シャンディガフ2つください』と伝えると、わかりました、といって一度厨房の方へ戻っていったかと思うと、すぐに再び戻ってきて、『年齢確認のために身分証明書をみせてください』と言った。え、と思って、みんなに確認しているのかと思ったけれどそんな雰囲気もなさそうで、『もしかして私たち未成年に思われたのかな・・』とわたしもちーにゃんも同じ思いで無言でちらっとふたりで目を合わせ、財布から免許証を各々取り出した。若く見られることは確かに嬉しい、それは嬉しいのだけれど、さすがに未成年には見えないだろう。もうわたしたち28ですよ、28。
そしたらわたしたちの免許証をみたミジェルが、怪訝そうな顔をして、困ったように免許証とわたしたちの顔を見比べてきた。
わたしたちの誕生日は、ともに『昭和63年』である。
あ、と思った。ミジェルは、『昭和』という字が意味するところが分からないのだ。たぶん、これまで免許証で確認した未成年もしくは未成年と思われる人々は、みんな平成生まれだったのだろう。
わたしたちは、あまり日本語が堪能ではなさそうなミジェルに、『これは、しょうわ、って読みます!!』『わたしたち、ふたりとも、28さい!!』と日本語で一生懸命伝えた。店内は騒がしかったので、大声で『わたしたち28さい!!』とふたりで叫んだ。嬉しい誤解だったはずなのに、なんだかみじめな気持ちだった。外人の人から見ると、日本人は童顔にみえる、ということをどこかで聞いたことがある。ミジェルはいったいわたしたちがいくつに見えたのだろう。
ともあれミジェルに昭和という年号が持つ意味について伝わったところで、クリーミーな泡が乗ったおいしそうなシャンディガフが運ばれてきた。わたしたちはシャンディガフとおいしい国産の焼き鳥を食べながら、今後の婚活について作戦会議を始めたのだった。
進みなさいと、誰かが言う声が聴こえる
雨が降り出し、傘を持っていないと思われるスーツ姿のサラリーマンが足早にかけてゆく。同じように、傘を持っていないと思われる若い女の子2人が、うつむきながら、けれどそれほど急ぐようにもみえず、通り過ぎてゆく。傘を持っている人たちは次々とそれを天に向かって広げ、うっすらと暗くなり始めた街に色とりどりの花を咲かし始めた。
今朝の天気予報は、見てくるのを忘れた。
しかし傘を持っていないひとが一定数いることから察するに、降水確率はそれほど高くはなかったのだろう。
よい本と巡り合えた時、またそれを読んでいるとき、雨が降ればいいのにと思う。
目の前で、中高年といったところの主婦らしき3人組が、折りたたみ傘をたたみながら笑顔で喫茶店のなかへ入っていった。
ひとりが好きなのではない。けれどひとりでいることは、無性に安心感を与えてくれる。たったひとりの部屋にいるときではなく、大勢のひとがいる街中だったり、カフェにいるときの『ひとり』は、大きなゆりかごのなかにいて、もう覚えていないけれどかつて経験したであろう赤ん坊の頃手にしていた絶対的な安心感に包まれている、そういう気持ちになる。とてつもなく大きな何かの一部であるということを実感できる。そういった認識がきちんとできるときの自分は、脳が正常に機能しているのだと思う。
ひとりが好きな訳ではないけれど、ひとはひとりでしか生きていけない事を知っている。周りの支えや社会から与えられる保障や友人といった類の存在がなくてはいまのわたしは生きてゆくことはできないが、結局ひとはひとりだ。自分を救うのは自分しかいない。わたしを取り巻く有機的な、あるいは無機的な存在たちは、それを手助けしてくれるが、最終的な指揮は自分で執るしかない。
音楽が延々と流れている。イヤホンから1曲の歌がリピートされていて、両耳からわたしの頭の中に流れ込んで溶けてゆく。
さっきまでの滝のような雨は夕立だったようだ、雨は街路樹を大きく揺らすだけの風になっていて、傘をさしているひとはもういない。
ひとはひとりだけれど、そのなかに他の誰かが溶け込んでいる、という発想はとても自分を強くする。自分がいる限りそのひとは永遠であり、一緒に歩み続けることができる。
『いまあなたは、そこを通りなさいという道を試されている。自分の中で受け入れられないことも飲み込みなさいと言われている。これを通過することによってあなたは成長してゆく。いろんな負を目の当たりにすることで、はじめて生きることの尊さがわかる。』
It's a lonely road.
But I'm not alone.
宇多田ヒカルの『道』が、ずっとイヤホンから聞こえてくる。その道を進みなさいと言ってくれているような気がする。
(無題・2)
(無題) - 世界を食べたキミは無敵。からの続きです。
母は言った。『××君の時は、かわいそうだけれど、××君はここまでしか生きられない人間だったっていうか・・そういう、太く短くしか生きられない人生だったんだって、悲しいけれど思ってた。周りがどうしようと、××君は死んじゃってたって。でも、○○ちゃんのことは・・話を聞く限り、もしかして、周りの人なり、環境なり、なにかのめぐりあわせがよければ・・誰か一人でも、手を差し伸べてくれる人がいれば、変わったんじゃないかって。死ななかったんじゃないかって、思うよ。そう思うと、やりきれないね。』
夢をみた。
わたしはどこかの見知らぬ街の地下鉄の駅にいた。大きな駅にいたがそこがどこかは分からなかった。知らない街で知らないビルが建っていて知らない駅員さんがいた。駅員さんはわたしをどこかさらに遠い聞いたことのない街へ行かせようとしていた。夢だったのでわたしは何も不思議に思わずそれに従っていた。そしてわたしには使命が与えられておりなぜか他の乗客と殺し合いをしなくてはならないのだった。ポケットにはいつの間にか折り畳みナイフが入っていた。飛び道具でないことが残念だった、わたしの頭は正しい判断がなされていなかったのだ。ポケットに入ったナイフの使い方も知らないのに。
わたしは目の前に止まっていた電車に乗り込もうとしたが、そこにはかつての同期がいた。同期とは殺し合いをしたくなかった。反射的にわたしは『わたしこの後の電車に乗るから、先に乗っていって』と同期に言った。同期はわたしの気持ちを知ってか知らず出か、うん、と言ってさっさと止まっていた車両に乗り込んでいった、そうして先に行ってしまった。次に来た電車は終電だった。なぜだかは分からないけれど次の電車が終電ということになっていた、夢とはたいていそういう風に不条理や理不尽な条件が当たり前のこととして認識されている場所なのだ。わたしは、この電車が終電なのだから、これに乗らないといけないと自然に思っていた。終電の列車はなぜか屋根がなく、まるでジェットコースターのような車両になっていて、わたしは1両、2両ととまりかけていた車両を1台1台目で追っていった。そうして電車は止まり、最後尾の車両に乗り込もうとしたわたしは、その車両に鎖で繋がれるような形で繋がっていた、1台の船のような形をした列車をみつけた。それは前に来ていた車両とは明らかに形が違い、本物の船のようなものだった。船は茶色か、黒い色をしていた。船には2人の先客が乗っていた。それはすごく暗い船だった。わたしはその船に乗り込もうとしてその先客の顔を見て、凍り付いた。その先客の2人は、あの自殺した2人だったのだ。
『この船には乗ってはいけない』
そう直感した。
わたしは2人の顔に目を向けることなく、逃げるようにその船から降り、その船のような列車のひとつまえの車両に乗り込んだ。夢の中だったけれど、心臓がバクバクと鼓動を打っているのを感じた。『そういうことか』。夢の中でわたしは悟った。なにがそういうことなのかどうか分からないけれど、理不尽な夢の中では、それは確かに『そういうこと』であり、そう在るべき仕様だったのだ。その船はわたしの夢の中で、死者の乗る船だったのだ。わたしは『死者の乗る船』ではないジェットコースターのような車両に乗り込んだ。
そうしてすぐに場面が変わった。(正確にはその間にも何らかのストーリーが夢の中では進行していたのかもしれないが、わたしの記憶にある内容では、その間がすっぽり抜け落ちている。)
わたしは屋根のない、ジェットコースターのような車両に乗っていた。周りは木々が生い茂っている森のような場所を走っていたが、その木から伸びている枝は乗客から近い場所まで伸びており、手を伸ばせば容易に触ることが出来た。緑の葉を近くに感じ、風をうけて列車は走っていた。
隣には女の子が座っていた。女の子は気づかないうちに座っていたが、しかしおそらく彼女はずっとわたしの隣にいたような気がした。そう、黒くセミロングの髪をした女の子は、まぎれもなく、自殺した後輩だった。
(さっきまであの後ろの船にいたのに、いつの間にここへ移動してきたのだろう)
しかしそんな小さな疑問は夢の中ではすぐに消えて、わたしは彼女に話しかけていた。そうして、これは夢であると理解した。不条理で理不尽な夢の中でも、彼女がもうこの世にはいないということは、わたしには真実として解っていた。夢であるけれど、彼女と何か言葉を交わしたかった。何を話したのかは覚えていない。彼女は生前と変わらない、白い顔と泣きそうな笑顔で、わたしに話しかけてくれた。何を話したのかは覚えていない。けれど涙があふれて止まらなかった。泣きながらわたしは彼女と言葉を交わした。これは夢であると、そしてさらに言えば彼女がわたしの夢の中で発した言葉は、わたしの頭が作り出したに過ぎない言葉であるのに。辛かった。これは夢であると分かっていた。なぜこんな夢をみているのだろう。
現実の世界で、わたしは覚醒した。
悲惨な夢だった、慰めにもならないと思った。胃の中が鉛が入っているように重かった。何も変わらないいつもの憂鬱な朝が来ただけだった。さっきまで隣に彼女がいた、そういう気配は1ミリたりとも感じなかった。病院へは行きたくなかった。もう仕事をできるような精神状況ではない、人の死を、相手にするような病院では、今のわたしは潰れてしまいそうだった。とりあえず私は母親に電話し、一通りの夢の内容を話した。夢の内容をひとつひとつ話しているうちに、現実の世界のわたしも涙があふれてきた。母親は『きっと○○ちゃんが、会いに来てくれたんだよ』と言った。違う、そうじゃないんだよ。あれはわたしの頭が作り出した想像の産物なんだよ。ぼんやりしていた頭の中が少しずつ晴れてきて、現実感を徐々に取り戻してきたと同時に、涙もあふれるのを止めた。感傷的な気持ちは、足かせになるだけだと冷静なわたしが頭の中で言ったような気がした。現実の世界は一つだけしかない。彼女はもういない。わたしにあるのは、彼女のもういなくなった、この世界だけなのだ。
思い出さなければならない。思い出そう。彼女の事を。彼女はわたしに何を遺してくれたのだろう。彼女の死のなかに、死のなかにですら、いや、死の中にこそ希望を見出さなくてはと思っている。わたしという人間はそうしないと前へ進めないのだ。自分のこれまでの感情処理において未来への希望が一歩を踏み出せるエネルギーになると、この重い重い最大静止摩擦力にはこの出来事における『意味』がないと事態は動いてゆかないと、そう感じている。彼女の自殺に意味を探すのではない。これから『わたしが』生きていくなかで、彼女の死を『どう処理するか』、その過程のなかで何らかの生きていく意味を見出していくのだ。
世界は生きている人のためにある。希望も慰めも、生きている人のためのものだ。悲しみや絶望ですら、生きている人間の特権だ。時は流れる。悲しみは、川の流れのように過ぎ行く時間のなかで、流され、薄まり、やがて気配だけ残して消し去ってゆく。しかし例えそうだとしても、わたしたちが抱える悲しみはひとつではない、悲しみが浄化される前に、新たなよどみが川に生まれ、その浄化作業に追われる。そうしてあらゆる悲しみがまるでパレットの上のマーブル色をした絵の具のように、絵筆でかき回すたびに、徐々に混ざる悲しみは黒い色を帯びていくのだ、初めの悲しみの色はもう跡形もなく、ただどす黒くなった絵の具をひたすらグレーにしてゆく作業に追われてゆく。初めは、ひとつの色だった。青色をした悲しみは、澄んだ水に溶かされて水色になり、徐々に透明になってゆき、宝石を溶かしたようなエメラルドグリーンになってゆき、過ぎれば綺麗な思い出だったな、と思うはずなのだ。そういうイメージだったのに、いつのまにか遅くなってゆく浄化はあらゆる色の悲しみを混ぜ込むようになってしまい、浄化のイメージは黒い色になってしまった。彼女への悲しみは、何色をしているのだろう。赤色だろうか。鮮血のような赤だろうか。ルビーのような、透き通った赤。色白の彼女の頬によく似合う、赤色。この色は、混とんとしたわたしの悲しみのパレットの放り込みたくないと、そう強く思う。こんな所に入れてしまえば、儚い彼女は、すぐにでも消えてしまいそうなのだ。この赤を、消したくはない。
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日記はここで終わっている。
この出来事は、
この出来事とオーバーラップしているというか、同一スペクトラムに存在する出来事であり、わたしのなかでどうしようもない深く重い出来事として心の中に存在し続けることとなった。こんなこと、誰にも話せなかった。他人にわたしの気持ちを理解してもらうのは難しいことだろうなと思っていたし、話題として重すぎた。ただ、日々仕事をするなかで、『まるっきり他人の命を救うこと』の連続のなかで、わたしのなかのわたし1が、『お前の大切なひとも救えずに、何を偉そうなことをしている』と責めた。わたしのなかのわたし2は、何も答えることができなかった。仕事は仕事であり、決して意味のないことをしているとは思わないし、思いたくなかった。ただ、その時の自分にはその資格が無くなってしまったように感じたし、モチベーションを保つことが少しずつ難しくなっていった。いったいわたしは何をしているのだろうか、誰を助けたいのだろうか、誰を救うための仕事なのだろうか。
そうこうしているうちに、仕事が出来なくなってしまったのだった。
けれど、ここから這い上がらなくてはならない。悲しみの増幅というのは、自分の心がしていることであり、自分で自分の首をしめる行為なのだ。こんなことをしていたら、彼女はきっと悲しむだろう。わたしが泣いて悲しみに打ちひしがれているのを、天国から彼女は困って見ている事だろう。忘れるのではなく、この悲しみと、折り合いをつけること。浄化作業と、希望をみつけること。この世界で。この綺麗な世界で。きっといつか、自分にとって大きな糧になると信じたい。
(無題)
これは、今年、平成28年の2月~4月にかけて書いた、日記のようなものだ。
忘れてはいけない、という思いと、心の整理のために書いたものだ。
ブログという公の場に書くことは、どうなのだろう、と思っていたが、この3週間程度の休みの中で、わたしは『自分の弱さを認めること』そして『わたしが弱い人間であるという事を、隠さずにみせること』ということを学んだ。これは、わたしがあまりにも様々な問題を他人(家族や友人)に話さず、ひとりで抱える傾向にある、というわたしに対する母親の評価に由来する助言だった。昔から、自分の思いを『口から発する言葉にする』のが極度に苦手だった。けれど、文章でなら、少しは伝えることが出来ると思う。そういう思いで、ブログで書くことを決めた。本当のところ、少し緊張している。このブログの存在は、自分のリアル生活における友人には、誰にも話していない。もちろん家族にも。(最も、父親はブログなどといったインターネットの世界に興味がなく、また、母親はわたしの個人的な日記は読まないようにするということを信条にしているようなので、知ったところで読まれないのだが)
唯一、1年半前に、四国から愛知へ病院をうつる際に、このブログのことを話した後輩がいた。かなり赤裸々に、そして自分の中だけに隠している気持ちや考えを書いているブログなので、本当に、彼女ひとりにしか話さなかった。なぜ彼女にだけだったのかということは、そんな大きな理由があるかというとそれは一言では言えないのだけれど、何となく、雰囲気として、彼女であればわたしの想いを『共有』してくれるだろう、という気持ちがあったからだった。彼女とは約1年間の付き合いだったが、濃い時間を過ごした相手であった。たくさんの想い出がある。そうして、わたしが愛知へ帰る際に、餞別の品として、バスセットと、短い手紙を渡してくれた。その手紙には、『あかめ先輩がいなくなったら、これからどうやって生きていったらいいか分かりません(笑)』と書かれていた。まさかその言葉が、今になってどれほどの重みを持つことになったのかということは、その手紙をもらった時には想像なんて出来なかった。
彼女は、もういない。彼女は、もうこの世界に存在しない。
これは作り話なんかではない。書いていて自分でも、嘘のように思えるのだけれども。
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後輩が自殺した。
後輩というのはわたしが初期研修をしていた病院で、わたしが2年目のときに1年目として入ってきた、明るく(みえる)はきはきした聡明な女の子だった。彼女は現役で医学部に入学したが、途中1年留年をしていたので、年齢はわたしと同い年だった。彼女は開業医の娘だった。しかし娘と言ってもひとり娘ではなく、同じく医学部へ進学した兄がいて、その兄も医者の奥さんと結婚したとのことで、跡取りに困っているようなお家事情はなかった。条件だけ見れば何不自由なく生きてきて、これからも生きてゆけるようにみえる人種の人間だった。おまけに彼女はほっそりとした体、胸もそこそこ大きかったし、愛らしい目をしていてひいき目でなく可愛かったし、先輩から好かれるような正直な性格をしていた。
彼女は研修医としてこの病院へ入る前に、何度か病院へ見学に来てくれていた。その当時わたしは研修医1年目だった。大きな病院ではなく、わたしの学年には他に女子がいなかったこともあり、病院のこと、研修内容のこと、その他他愛ないことなど、彼女が見学に来てくれた時にはいろいろと話したことを覚えている。そうしてすぐに仲良くなった。彼女はわたしのことを気に入ってくれていたのが分かったし、わたしもぜひこの病院に入ってほしいと思った。いろいろ教えてあげたいと思ったし、後輩として可愛がってあげたい、おいしいご飯を一緒に食べて、飲み会もして、彼女が後輩としていてくれれば楽しい研修生活が送れそうだと思った。
ある種の親和性というか、第一印象で、あ、この子とは仲良くなれそうだ、という雰囲気を持つという経験ってあると思う。いま周りにいる同性の友達を思い浮かべた時、その子と初めて出会った時のことを考えてみる。中には初めて出会ったとき、その第一印象がかなり悪く(しかもお互いそう思っていた)けれどその後とても仲良くなれるという子もいる。それほどの印象はなく、可もなく不可もなく、という感じでも、同じ時間を過ごしていくうちに仲良くなる子もいる。逆に最初かなりよい印象を持って仲良くなっても、どうしようもなく巻き込まれてしまったしがらみにより絶縁状態になってしまった子もいる。それでも初めに持った印象というのが良いと、打ち解け合うスピードは速いのだと思う。お互いの第一印象が最悪だった友達は、同じ部活動で嫌でも一緒に過ごす時間が長かったために、お互いを深く知る時間を持つことが出来たために仲良くなれた。たぶん、そういう環境に置かれなければ仲良くなることはなかったのだと思うし、相手の事をよく知ろうという気持ちにならなかったと思う。
その点彼女とは初めて会った時から、何というか、初めて会った気がしない感覚、今思えばどこかしら生い立ちや積んできた経験が似ていたのかもしれないし、根本的な性分が似ていたのかもしれないけれど、そういう印象だった。そうして、彼女が正式にわたしの後輩となってから、わたしと彼女の距離が寄り添うように近づくまでそう時間はかからなかった。
言ってもわたしが彼女と過ごしたのは、1年強という時間だった。
27年という人生を考えるとそう長くなかったのかもしれない。
彼女は自分のことを話すときには、基本的に自虐的なスタンスだった。自分の意見はおそらく心の中に持っていた。けれど他人の目や批判を気にしてなのか、表に出すことはそれほどなかったようにわたしには見えた。とても賢い子だったと思う、わたしの理解できる範疇を超えるほどに、そしてたまにいう『自分の意見』などは、すべて彼女の中で計算されて発せられた言葉なのではないかとわたしは思っていたが、それが果たして本当にそうだったのか、それともわたしの深読みのし過ぎなのか、今となっては知る由もないし、聞いたこところで彼女は答えなかったとは思う。
ゆきすぎた謙遜、固められた自我、抑圧された感情、泣きそうな笑顔。そういった言葉が彼女を形容するのには似合っていたと思う。それはよくないことだと思ったが、それを治すことが出来るほど彼女はもう小さくなかったし、その中でずっと生きてきてそこに居場所があり、彼女がいた場所、そこは傍から見ても、何もかもを振りほどき、自由になれるような場所ではなかった、正直に言うと彼女はあまり恵まれた環境に置かれていなかった。履歴書などに書けるような、箇条書きの条件ではみえないもの。周りの大人たちが、彼女の自由を奪っていた。それもおそらく、小さいころから、心の内部を、じわじわと蝕むように。そういったことを大人たちは悪意を持ってしていたことではないと思うが、悪意がなければ許されるかというとそうではないとわたしは思う。いや許すとか、許せないとか、わたしが口を出せる範疇の問題ではないので、やはりどうしようもなかったとしか言いようがないのだ。持って生まれたもの、自分の力で変えられないもの、そういったものは他人が批判すべきではないし、口をはさむべきではないとわたしは思う。そしてそれは、この出来事に対してやり場のない悲しみと、答えのない問いへの虚無感を生んでいる。誰かが彼女のいた場所から、引きあげてあげることが出来ていたなら。彼女の浸かっていた深みは、きっとわたしが想像していた以上に深く、冷たいものだったのだろう。そうして、わたしは、また自分が大切なひとを失ったことへの絶望を感じている。2年前に一度失って、考えたのではないのか。どうすればよかったのか。何をすれば後悔しないのか。
大学在学中の留年について、彼女は『遅く来た反抗期』といったニュアンスの事を言っていた。何をしていたのかと聞くと、彼女は『缶詰工場でアルバイトをしていた』と言っていた。確か、海産物系の缶詰工場と言っていたと思う。それについてわたしはとても笑ったが、ああ、そういう子なんだな、とも思った。そういう子、という感触をうまく言葉にできないが、なんというか、『病んでる』、ひと言で言ってしまえばそうなるのだが、繊細で、自分の気持ちを抑圧してしまうタイプの子というか、たぶん、医学部に現役で入学して、1年間の留年を缶詰工場のアルバイトに使う女の子って、そういないと思う。とにかく、わたしの中で彼女が異色を放っていたことは間違いなかった。そしてこのエピソードは、わたしに彼女をますます好きにさせたのだった。
彼女の自殺を聞いたのは、今年のお正月明けの事だった。
わたしは通っていた大学のあった県で初期研修の2年を終えて、遠い県外の病院へでていた。なので彼女と仕事をしたのは実質1年間だった、わたしの初期研修2年目と、彼女の初期研修1年目。今から半年くらい前に一度古巣へ行く機会があり、突発的に飲み会を開催したのだが、彼女は笑顔で来てくれて、コンビニでビールやおつまみを買ってきてくれた。その時私は3年目、彼女は2年目になっていた。あの時わたしは彼女と何を話したのだろう。直接交わした最期の会話になってしまったのだが、悲しいことにわたしはその内容を覚えていない。確かなことには、その時の彼女は、一緒に仕事をしていた時の彼女とそれほど変わってはいなかった。だからといって、彼女が精神的に病んでいなかったかどうかと言われるとその答えは難しい。もともと不安定な子だったのだ。ずっとそういった空気は纏っていた。それは付き合いが長くなればおそらく感じ取れる(こちらに感受性があれば)空気で、初対面だったり、その場をやり過ごすことに長けていたので、もちろん表立って暗かったりめそめそしたり弱音を吐いたりしない、むしろなぜいつもこんなに笑っていられるのかというくらいケラケラしていたので、ぱっと見ただけでは分からないが、ある程度付き合ってみてこちらにそういう感受性があれば、『この子は少し不安定なところのある子だ』ということに気づく、そういった空気を纏っていた。基本的に自虐的なスタンスだったが、それはあの時の彼もそうだった、そういったところはよく似ていた、そうして『この子は放っておくと危ないかもしれない』という微かな危険にわたしは気づいていたのだけれど、そう、だから半年前に久しぶりに会った彼女が『自殺の前兆を思わせるような』『特別な』雰囲気を醸し出していたかというと、そんなことはなかった。きっと、誰に聞いてもそういう答えが返ってくるのだと思う。記憶が確かなら、いや、確実に、わたしが最期に見た半年前の彼女は笑っていた。
お正月に『あけましておめでとう、元気にしていますか』というLINEを送ったのに、3日経っても一向に既読にならなかった時、嫌な予感が心をよぎった。しかし、その時わたしは、まさか自殺してしまっているとは思わなかった。研修を一時的に中断してしまっているかもしれない、とは思った。初期研修時代も、様々な問題(家庭のことであったり、進路のことであったり、恋愛のことであったりその他もろもろの事に関して)を抱えては泣きそうな顔で笑って話してくれていた彼女を思うと、仕事が出来ないくらいの精神状況に追い込まれてしまっていると聞いても、正直なところそう驚かなかった。もちろんとても辛いことではあるけれど、誰にでもそういう事はあるし、自分を責めないでほしい、近いうちにそちらへ行って元気づけてあげないとな、と思った。そして彼女について詳しく状況を聞くべく、古巣に残ったわたしの同期に『彼女、最近元気にしてる?』というLINEを送ってみたものの、そちらの方も3日経っても一向に既読にならず、嫌な予感は、少しずつ少しずつわたしの心の中で広がっていった。一度回り始めた嫌な予感スパイラルは、自分の重力を糧にしてあっという間に加速して回り始めていた。不安という小さな粒は、目に見える大きさの粒子となり、まるで霧のように拡がり濃厚な恐ろしい空気となってわたしの周りを覆っているようだった。何かがおかしかった。
おかしいと思ったら、もう、とにかく誰かに彼女の動向について聞かなければならなかった。手当たり次第に、最近の彼女を知っているであろう人間に電話をかけてみた。よく覚えているが、あれは大きな最寄り駅にあるスタバでの出来事だった。わたしは焦っていた。嫌な予感は、小さな風船を膨らませるようにじわじわとわたしの心のなかを支配していき、ちょっとずつ大きくなるそれは、スペースの狭くなった居場所からするっと抜け出すように口から吐き出させられそうになり、わたしに本物の吐き気を催した。吐きそうになりながら電話をかけた。電話は長いコールのあと、彼女の同期のひとりだった女の子につながった。
『もしもし』
電話に出たその子は、眠たそうな声をしていた。どうやら当直明けだったようだ。こんな時にごめん、と謝り、ところでさあ、○○ちゃんって、元気にしてる?とわたしは聞いた。
少しの間があった。
わたしは、今ほど隣に誰かにいて欲しいと思ったことはないというくらい、誰かしらにそばにいて欲しいと思った。聞きたくない。次に発せられる言葉は、聞きたくない。こんな思い、2年前にもう二度としまいと誓ったはずだった。
『えっと』
とその子は落ち着いた口調で言った。今思えば、その子は彼女の死をもうかなり前に知っていたのだ。そして、わたしがそのことを知らないであろうことも分かっていて、丁寧に言葉を選んでくれているようだった。
『○○ちゃん、じさつしたんです。去年の、11月くらいに・・』
ああ、と思った。ああ、またか。
またか、という絶望と、信じたくないという拒絶が、わたしの心の中で相いれない風に渦巻いていた。
またお前は友人をひとり殺したのだ、と頭の中で誰かが言ったように思った。
低空飛行するように、心の奥底を漂っていた疑問があった。近しい人間が立て続けに2人自殺してしまったことにおける、自らの、彼らに対する(自殺に対する)親和性についてだった。
友人Aによれば『それは偶然だよ』とのことであった。わたしとしても、そのことに関して追及したところで得られるものは皆無だろうし、誰も得することではないという事は理解しているつもりだし、だから何と言われればそれまでだ。深追いしてもいいことではないから、この考えはここでおしまいにしなくてはならない、それでも考えてしまう、これがただの偶然なのだとしたら、わたしの人生を動かしている神様はなんて非情なのだろう。
一連の出来事について、詳しく知っているひとは数多くはいないようだった。家族にとっても、近しい病院関係者にとっても、言いふらすべき事柄ではないし、古巣においてもまだ知っている人は少ないと思います、というのが電話先の後輩の話だった。それでもどこからか情報は漏れるのだろうし、この話はそのうちにひっそりと広まってゆくのだろうなと思った。また別の人間から聞くことには、彼女は遺書をのこしていたらしく、その内容は主に感謝と謝罪の言葉であったらしく、そして練炭自殺だったらしかった。練炭自殺というのは辛かった。いや、どんな死に方でも辛いのだが、前々から準備をしていた死に方というのは彼女の死への願望が突発的なものではないことを物語っており、死へ向かわせないルートが残っていた可能性を示すものであり、そう思うとやりきれなかった、ただ、ただただ、やりきれなかった。
2年前に死んだ彼についてよく知る友人Aに、『また』友人が自殺してしまったことを話すと、彼はわたしが大丈夫かどうか一通り聞いてくれたあと、『きみの心情は察するに余りあるよ』と言ってくれた。心情は察するに余りある。わたしは彼のこういった言葉遣いがとても好きで、心地よく感じた。同じ痛みを知るひとに寄り添ってもらえることがどんなに幸せなことかと思った。しかし皮肉なことだと思う。大切なひとを亡くして、大切なひとを再確認する。失って初めて気づくありがたみ、という言葉に異論はないが、失わないと気付けない痛みというのはずいぶん子供な出来事のように思う。もう過去に過ぎているはず、学習している痛みのはずで、それを繰り返している自分が馬鹿みたいだった。2年前の友人の死は、ずいぶんわたしを変えたのだと思う。それは成長といえば成長だし、大人にさせたといえば大人にさせたし、痛みを鈍くしたといえば認めたくないがそのようであるようだった。自分はずいぶん、痛みに鈍感になったものだと思う。ひとは傷つく出来事を経験してゆくたびに、自分を守るために心に鎧を纏うことを覚える、使いまわされている比喩表現だと思うが本当にその通りだと思う。わたしは鎧を纏ったことで痛みに鈍感になっている。死んだ彼女のことも、どこか遠い国でおきた出来事のように感じている。
たぶん、どうしたらよいのか分からないのだ。2度の大きな失敗は、わたしの自信を喪失させるのに十分だった。
痛みに鈍くなった分、浄化も同時に鈍くなっているようだった。痛みはいつまでもくすぶっている、彼女の死は、近い将来に綺麗に浄化されることはないのだろうという確かな予感をはらんでいた。
(無題・2) - 世界を食べたキミは無敵。 へ続きます。
スタバにて
たいていの時には、スタバにいる。
いまも、カフェミスト(のデカフェでソイミルク)を飲みながら、パソコンに向かっている。
スタバという場所は何となく、自分に酔っているというか、いわゆる意識が高いひとが行くといういうか、あまり良くない意味でのハイソなイメージを持っているひともいるようで、というか自分が落ち着く場所ならばどこで何をしていても構わないと思うのだけれど、わたしはスタバで村上春樹を読むのが好きなので(ただきょうカバンに入れてきたのは米原万里の『旅行者の朝食』)、そういった行為をしている自分が好きなのかもしれない人間なのだけれど、それで自分が満たされるのならそれでいいと思う。
前回の記事をみるに、ちょうど1年間ほど、このブログを放置していたようだ。
放置といっても、このブログの存在が頭から消えてしまっていた訳ではなく、むしろ書こうと思ったことは色々とあったのだけれど、頭の中でそれらの事柄を処理して文章にするという行為以上に、心のなかで処理しなくてはならない事柄が多すぎて、文章にするという行為が追い付かなかった。
ブログを書く、自分の感じたこと、考えたことを文章にするということは、自分の身に起きた事柄を振り返る事にほかならず、文章を考えている最中には何度もその事柄を頭の中で反芻することとなる。
結論から言うと、わたしは、見たくない過去から目を逸らし放置していたせいで、つまり自分に起きた事柄を反芻することを拒否していたせいで、ブログを書くことが出来ず、それどころかそのうち心を傷めてしまっていた。浄化が追い付かないほどの出来事が、この1年間にあった。それは、いま、振り返ることが出来たからこそ、解る。渦中にいるときには、そういった渦の中に自分がいることは認識できないものなのだということも、認識した。辛い出来事を反芻することはとても苦しいものだ。その一時には、とてつもない身体と心への負担がかかる。けれどそれをしないことには、その辛い出来事は、雪のうえを転がしたときの雪玉のように、時間を巻き込んでどんどん膨れてゆき、そのうちもっと大きな形で自らを苦しめることになる。想い出は時を経るごとに美しくなってゆくというけれど、どうも辛い出来事のなかには、時の流れだけでは浄化しきれないものもあるのだということを知った。そういったものを、もしかしてトラウマと呼ぶのかもしれない。
わたしは様々な限界がきて、ここ1か月仕事をお休みしていた。いまも、そのお休みの最中だ。上司から、文字通りドクターストップがかかった。どうしても仕事は続けたいと身体は思っていたけれど、それは難しいことだと心が諦めがつくほど、そのときの精神状況はボロボロだった。とりあえず実家に連れ戻された。最初の一週間は罪悪感でいっぱいで、何とか仕事に復帰できるようにしなきゃと焦るけれども頭が回らず、自分はこのまま呆けてしまうのではないかと本気で思った。記憶の定着も悪く、夢のなかで生きているようだった。現にいまも、仕事を休む前後1週間くらいの記憶が曖昧だ。眠ると怖い夢をみるので夜も眠れなかった。しんどいのは午前中で、吐き気とひどい倦怠感ととてつもない絶望のなかで朝を迎えた。ひどい状態だった。このまま消えることが出来ればどんなに楽だろうかと感じた。何もしたくなかった。両親がいなければ、本当に、いま、生きていなかったかもしれない。無理矢理エネルギー源を口から詰め込まされ、少し外を散歩したり、あるいは世の中の出来事をぼんやりテレビで眺めながら、そうしているうちに夜がきて、お風呂に入って布団に入った。そしてまた泣きそうになりながら微睡みの中朝を向かえる、そういう日々を1・2週間送った。
仕事を休む前、心療内科の先生は、わたしが仕事を何とか続けていきたいというニュアンスのことを話すと、それはあまりよい選択肢ではないと言った。本当に、どうしても、仕事から離れたくなかったのは、ここで休むと、もう仕事に復帰できないと思ったからだ。それでも、その状況ではとても命を扱う仕事は出来なかった。そういうことも、理解しているつもりだった。こんな状態の医者に診られるなんて、患者さんには申し訳が立たない、けれどしなくてはならない仕事に穴を開けることはどうしても避けたい、けれど長期的にみて重要だったのは、この状態をきちんと立て直すことだ、本当に、断腸の思いだった。大切なのは、未来の患者さんを助けることだ。涙をボロボロをこぼしながら、先生の言う通りにします、と振り絞るように言い、わたしは職場に休暇届を出しに行った。同期や、後輩、先輩に、本当に申し訳ありません、元気になって帰ってきますと言い、そこから、少し長いわたしの浄化作業ははじまったのだった。
職場の方々には、本当に感謝している。結果的に、休んだことは正解だったようだ。
こうして、ようやく日々を、振り返るという行為ができるようになった、それだけでも自分としては大きな一歩だと思う。また、この、自己満足の文章を、書いてゆこうと思う。浄化作業だ。後輩への、弔いとして。