世界を食べたキミは無敵。

小さい頃おいしゃさんごっこをして遊んでいて、いつか大人になってもずっと続けている、そんな人生

親友とは何かという長い話〜『過去10年で最高といわれた03’を上回る出来栄え』05’のシンユウ、Tokyo,Japan産でございます。〜

友達、という言葉がある。

そして、親友、という言葉がある。

 

とも-だち【友達】

互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友(ほうゆう)。友。

 

しん-ゆう【親友】

互いに心を許し合っている友。特に親しい友。

ーgoo辞書より

 

正直、辞書を読んでもぜんぜん、ピンとこない。

そもそも『自分なり』にこの言葉の定義を考える際には、辞書という存在はあまり意味をなさないと思われるし、求める答えが書いてあるとは思えないし、辞書での定義では明確な答えが書いていないから、こうやって悩むことのなるのだ。

 

上の辞書を読むと、『友達』の意味にはまず、『互いに』心を許し合って、と書いてある。ということは、友達と呼ぶには、相手が心を許していることが前提となっている。これを確かめるのは非常に難しいことではないだろうか。自分が心を許していても、相手が心を許してくれているかどうかは、どう頑張っても確かめることなどできないように思う。そして次には、『対等に』と定義されている。友達というのは対等の存在なのだ。友達というのは対等な存在です、というと、まあそうだよね、と確かに思うけれど、では、対等でない関係といったらそれはどういった関係なんですか、といわれるとこれはまた難しい。上司と部下、親と子供、こんなわかりやすい関係ばかりではないのが人間関係であって、まあ、けど、どちらかが相手を下に見ているという関係は友達ではないような気がするから、なんとなく分からなくもないかな、と思う。

では親友は、というと、上の定義を読む限りは、友達とほとんど内容が変わりないように思う。しかし『特に』親しい友、と定義されていることから、友達のなかでも『特別』と思える存在が『親友』というものなのだろう。じゃあ特別ってどういうことなのだろう、と考えると、そこはやはり主観的な問題であって、自分が『この人は特別だ!』と思ったら親友と呼んでいいのかな、ということになるだろう。

 

うーん、友達を定義するのは非常に難しい。というより、わたしが悩んでいるのは、友達とはこういうものです、という定義よりも、実際に求められるのは、『果たしてあの人は友達と呼んでいい存在なのだろうか?』という一問一答形式の問題の答えであるような気がする。

 

この話を考えるきっかけとなったのは、以前のエントリ『グッドバイ・世界』でid:kkzy9さんがこんなコメントをくれたことだった。

友達ってなんだろ。胸を張って「友達だよね?」って言える相手なんかいない。嘘偽りなく「俺は友達だと思っているから」って言える相手もいない。

 

このコメントをくれたkkzy9さん(かわぞいさん)は、『Letter from Kyoto(今はトロントにいます)』というブログを書いている方で、よくわたしのエントリにB※くださって私はとても嬉しい。初めにブログを読んでいたのはわたしの方だったと思うのだけれど、その時かわぞいさんはすでにKyotoではなくトロントに住んでいて、トロントをはじめとする海外でのエントリをよく書かれていた。すごく読みやすい文章で、短すぎず長すぎず、内容もトロントの事から自分の過去の話、時事問題っぽいお話などなど、いろいろあって飽きない。かわぞいさん自身は自分のことをプロフィールに『特徴がない』と書いているけれど、決してそんなことはなくって、ブログを読むとその切り口は『あ、そこから攻めるんだ』といった、わたしからみると斜め上から、しかもずばーっと容赦なく切り込むのがかわぞいさんの特徴だとわたしは思う。自分を(無意識かもしれないけれど)すごくすごく客観的にみていて、あたかもどこか上の方から自分を眺めて書いているような文章が、飄々とした、ちょっとやそっとでは動じない印象を与えてくれる。わたしのエントリにもよくコメントをくださるのだけど、その内容は、結構、わたしとしては痛いところをついてくる、というか、あ、そこ気づかれちゃったか・・・という穴、みたいな、文章が脆弱になっている部分、を、的確に、ずびーーっとついてくることが多くって、かわぞいさんの天性の嗅覚を感じるのです。

 

で、このコメントをくれた『グッドバイ・世界』では、友達、と親友、わたしは両方の言葉使っていて、それは意識的にその2種類の言葉を使い分けて書いていた。

このコメントをいただいたあと、かわぞいさんとはTwitterで少し意見を交わしたのだけれど、かわぞいさんは、友達という言葉のハードルが、わたしより高いのだな、ということを感じた。いや、言葉のハードル、というか、なるべく定義が曖昧な言葉を使いたくないのだな、と感じた。かわぞいさんは、だいたい『知り合い』という言葉を使われるそうだ。そして、『親友』という言葉についても、『親友という言葉は、友達に格付けをしているようで、あまり好きではない』ということをおっしゃっていた。わたしはこれに、かわぞいさんの相手への気遣いを感じた。知り合い、というと一瞬少し冷たい印象を受けるけれど、かわぞいさんはきっと、みんなできる限り平等に、特別扱いをしない、ということを大事にされるのだな、と思った。これがかわぞいさんの友達への友情表現の仕方なのだろう。

たいしてわたしはというと、友達、と、親友、という言葉を使い分けている。そう、これはある意味、友達を格付けしているということだ。けれど、なんというか、自分の中では『格付け』しているという感覚はなくって、例えるなら秋になるにつれていつのまにか赤色に紅葉するもみじのような感じ、『いつ紅葉したんですか』と聞かれたらはっきりとした日にちや時間は言えないけれど、そういえばここ最近、紅葉しているなって気づきました、という感覚だ。親友はもともとはたぶん友達で、いつのまにか、あ、もうこれは親友といってもいいんじゃないかな、という風になっている、そんな感じだと思う。どうなったら親友なのか、っていうのは言葉にするのはひどく難しいように感じる、けれどわたしの辞書にある『親友』の場合は、ある程度の時間が必要なのは間違いなさそうだ。たぶん、お茶したり映画に行ったり、ザ・友達っぽいことをしている間は『友達』で、そこからだんだんと時間が経って、お互い別のコミュニティができたり、あるいは住む場所が離れたり、そんなことがあっても、定期的に、1年に1回とかそんな頻度だったりしても、『連絡をとりたいな』『元気にしてるかな』と近況を聞きたくなる、そしてその久しぶりに会ったときには心から相手の幸せを願えている、そんな感じかなって、自分では思う。ザ・友達っぽいことをしている間には、おそらくその相手に何か悩みを打ち明けたり相談にのってもらったり、偶然にも助けてもらったり、何らかの形でなにかその相手には肉体的なり精神的なり助けてもらっていて、そのまま自然に、『わたしも何か手助けができたらいいなあ』『支えになれたらいいなあ』という気持ちが芽生えていて、時が経って『もしかしたら親友なのかもしれない』と思う頃には、こんなことがあったんだよって話したい、というより、むしろ会えていない間にあなたは元気だったかな、悩みとかはないかな、どんなことがあったのかな、とどちらかというと相手の話を聞きたくなるような、親友には、そんな感じがある。

別に、この子は友達だけど親友じゃないな、とあえて考えたりすることはない。けれど、生きているうちに、なんとなく特別に思う子は、出来てしまった。その理由はいろいろで、別にみんながみんな青春漫画のような泣きながら語り合った間柄では決してなくって、こちらのタイミングと相手のタイミングが奇跡的なタイミングであったことのよる出来事とか、そんな偶然的な要素も絡んでいると思う。わたしが親友だと思っている子がすべて、相手もわたしのことを親友だと思ってくれているかどうかというのは確かめようがないことだし、そんなことはないだろうな、とも思っているけれど、わたしの中でその子が『特別』なのは揺るがない真実であるし、その子が例えわたしのことを友達とすら思っていなくてもわたしがその子に助けられていることは消えない事実であるし、ここまで書いて思ったけれど、一方通行だとしても胸を張って『親友だ』と言える存在こそが『親友』なのかもしれないな、とも思った。特別をつくることは、他の人は特別ではないといってしまうことである、けれど、これは仕方のないことだとわたしは思う、それは色んな偶然の積み重ねを含んでいるからだ。

で、そうであるからこそ、今まで書いてきたようなこと、こんなことは心の中にしまっておくもので、面と向かって言うべきことではないかな、とも思う。状況が許すのなら『親友』だとか『友達』だとか、そんな定義の話をするのもいいかもしれないけれど、あえて、あなたは親友だから、とか、あの子は友達だから、とか言うようなことはしないだろうな、と思う。

 

ちょっと昔は、自分には友達がいない、と思っていた。友達という言葉は主観的だから、自分で、自分には友達はいないと、定義していた、のだ。わたしの事を本当に理解してくれる人などいない、という思いが根本にはあった。みんな楽しそうに話してる、でもわたしは笑えない、わたしの気持ちなどわかってくれるひとはいないから、だから友達はいない、と思っていた。みんながするようなキャンプとか、旅行とか、わたしは楽しくなかった、一緒にいるのは『友達』ではないから、心から楽しむことができなかったのだ。けれど、今思うとそれは、わたしの事を理解してほしい、という欲求を満たしてくれる人を『友達』と定義していたことが原因のひとつで、いつだったか世の中には自分の事をすべて理解してくれる人なんていない、と気づいてから、そのハードルが一気に下がってしまった。世の中には自分の事を理解してくれる人なんていない、というのは絶望の言葉ではなかった。わたしには、期待しないことが必要だったのだ。1から10まで笑いのツボがあう必要はない(そんなことはできない)、何もかも包み隠さず話さなくてもいい(性格的にそれは出来ないことだったことに気づいた)、友達だって親友だって、一緒にいたくないと思う時はあるものだし、そうそう、こういうことは「~が合わない」といった減点方式で考えるよりも、加点方式で考えた方がいいっていうことを学んだのだ。

今のわたしがいる場所は、『友達はいない』と思っていた頃と、状況はなんら変わっていない。けれど、キャンプも旅行も、それなりに楽しめるようになった。自分の事を理解してもらうなんていう願いはおこがましいし、相手の事を理解できていると思うこともまた、おこがましい。そんなもんなんだ、という諦め、一種の悟りのような感覚は、『ありがとう』のハードルを下げた。要は、ものさしひとつなのだ、目盛りをどこに振るのか、それは一切を自分にゆだねられている。すごくシビアにしてもいいし、甘くしてもいい、それは自分の思いひとつなのだ。

 

そこは、無数のワインが並んでいる、ワインセラーだ。

無数に並ぶ『ワインのように見える』その飲み物のなかで、『本物』のワインは数本かもしれないし、何百本もあるかもしれない。それは自分で決めるのだ。ひとくち飲んでみて『あ、これはワインだ』と思えばワインだし、香りでワインかどうか確かめるもよし、色で確かめるもよし、自分で『これはワインだ』と決めたものがワインになる。別に『これらはすべて、”飲み物である液体”です』としてもいい。

そのワインセラーのなかで、温度や湿度、日の当たり具合、なにか偶然の要素や、まあ、よく手をかけて面倒をみたワインは、いつの日か、『特別』なワインになるかもしれない。どのワインも等しくおいしくなるかもしれない。もし『特別色がきれい』、『濃厚な味わい』、『芳醇な香り』とかそんな風に、特別だと自分が思うワインができたならそれは特別なワインだし、自分のワインセラーに並ぶものはぜんぶ等しく特別なのだ、とするのもまたよし、ソムリエのように厳しく評価するもよし、なんというか、友達とか親友とかって、自分のなかではこんな感じかなって思う。でもやっぱりわかんないな、主観的だから統一された答えなんてないものなんだろうな、って思う。まあけど、こういうこと、自分のなかで考えておくことは大事かなって思う、そう、そんな風に思う。

気持ちのカタチ、言葉のカタチ

最近、言葉の意味を考えることが多くなったように思うのです。

正確にいうと、自分の中でのその言葉の定義、というか、解釈のようなもの。

『水』と言ったらそれはH2Oの化学式で表わされる物質のもので、疑いようのないもので、世界中どこにいっても、もちろん日本でもガーナでもベルギーでも(咄嗟に出てきた国はなんかチョコレートの香りがする国、バレンタインが近いからかな)、北極でも南極でも火星でも、水=H2Oなんですけど、私が言いたいのはそういった類の言葉ではなく、前回の『親切にするということ』だったり、たとえば『生きるということ』だったり、『正義とはなにか』だったり、『私はシャルリー』なのか『私はシャルリ―ではない』のかであったり、そういった漠然とした、全人類で統一された解釈がされていないような『言葉』の意味です。

なんでこんなこと考えてしまうんだろうな、と少し考えると、このズイショさんのエントリ『お前は俺ちゃうんかい - ←ズイショ→』が、ぽわんぽわんと頭に浮かんできました。

 

関係ないですけど、ズイショさんは最近ほっぽりぎみのTwitterに気まぐれになにか書き込むとハイタッチしてくれるので嬉しいです。ズイショさんの文章ってホント独特で、最初は『なんだこれは』って感じで読み始めてたんですけど、テンポの良さによって一文がどれだけ長くてもしっくり頭に入ってくるような滑るような文章で、ああ一言で言い表せられない事って実はたくさんの単語とあらゆる比喩表現を使ったらここまではっきりとした輪郭を浮かび上がらせることができるんだと感動しながら読み進めて、白黒つけないグレーな感じの話題をひっぱって引っ張ってあの手この手で品替え言葉替え、ひとつのテーマについて繰り返すことで、繰り返し繰り返ししつこく言い方を替えて書くことで、すごく強い印象を読み手に残してくれると思うんですよ。そしてズイショさんの文章を読むスピードで自分の疲れ具合を判定する、みたいな試みもされてたりして、すごいなあと思うわけです。なんていうのかなあ、ここでこの言葉が欲しい、という読み手の希望に合わせて文章が用意されているような感覚です。すごいなあ。ズイショさんの文章はピクセル数の多い画像みたいな感じです。細かくて明るくて鮮やかに言いたいことの伝わる文章。言葉が思うがままに操られているのが感じられます、言葉って使いこなすことができればこんな便利なものなんだ。たいして私はというと、きっとイラストロジック程度なんだろうな、って思います。四角いマス目がみえちゃう文章、遠くから見ればまあ形がわかるかな、くらいのイラストロジック並みの文章です。たまにマス目ずれて塗られているから絵が不完全だったりもする。言葉が自由に動いてくれない。話がそれそうなのでこの話は置いとくんですけど、せっかくなので私が好きなズイショさんのエントリを紹介したいと思います。『ブログを書き続けるためにはうんたらみたいな話します。 - ←ズイショ→』 私がこの話のなかで一番好きなところは、二年という数字を指折り数えるのではなく、大胆にも肘折り数えることで、思わず『頑張るぞ』のポーズになってしまうところなんですけど、白のタートルネックを着てみたらすごい可愛いポーズしてるんじゃないか、というところなんですけど、たぶん、こんな説明だけじゃなんのこっちゃわからないし面白さも伝わらないと思いますので気になった方はぜひ読んでみてください。

 

で、書こうと思ってたことは『お前は俺ちゃうんかい』の話なんですけど、この『お前は俺ちゃうんかい』っていうのは、結局のところ自分と他人は違うものだっていうひどく当たり前のようなことなんですけど、文章で読んだら当たり前のようでも実際そういった場に置かれると分からなくなることってあって、『なんでこの気持ちが伝わらないんだろう』って思う、同じことをしても捉える人が違えば感じ方も違うっていう当たり前の事、生活してると忘れがち。同じ映画を観ても、泣く人もいれば、感動すらしないひともいる。自分の感情に自信があればあるほど、『この映画見ても感動しなかったの?』とか『絶対おすすめの音楽だから!』とか、そういった発言をしがちになるけれど、あるひとつの事象に対して人それぞれ違う感情を持つのは不思議なことでは全然なくって当たり前、お前は俺ちゃうから。だから、私がベイマックスをみて2回号泣しても、隣に座っているこのひとは冷静にポップコーンにいっぱいキャラメルがついているものを選んで食べているほど無表情なことも、全然、不思議じゃなかった、でも不思議って思ってしまった、こんなにもお前は俺ちゃうんかい!って思う瞬間、大人になった今でもいっぱいあって不思議と思う。

で、とは言っても、この、自分が感じた感情を誰かと共有したいっていう気持ちは少なからずあって、絶対に理解しあうなんて不可能だから最初から諦める、なんてこと(はたまにしてしまって、孤独を感じたり寂しい思いをしたり、自暴自棄な気持ちが生まれることもあるけれど)それでも理解しあうことはできないのなら、せめて同じ風景をみていたい同じものを食べて同じ音楽を聴いて同じ時間を共有したい、と思うのです。その、何とか自分の思っていることを、この、今自分が感じている感情を、他人に分かってもらうことができないのだろうか、と遠い遠い私たちのご先祖様たちが考え出したツールのひとつが『言葉』であって、その言葉には『水』や『親切』なんてものがあって同じように頭の中の『単語ボックス』に詰め込まれているんですけど、この『水』と『親切』では使用方法の難易度が全然違っていて、水っていうのはだいたい目で見ればわかるし、においや味でほぼ水だとわかるし、『ここで水っていう言葉使っていいのかなあ』と悩むことはあまり経験したことないんですけど、『あの人って親切だよね』っていう文章となると、途端にいろんなファクターが絡み合って、『いや、親切というより、あの人はただの自己満足だよ』みたいな論争が生まれて、『親切なんて所詮自己満足だ』というひとがいて、『あの人の親切はおせっかいだ』ていうひともいて、じゃあ、結局、親切ってなんなんだろう?、ってなるのです。私が思っていた『親切』と、相手が思っている『親切』って、なんか違うんじゃないか?って、なるのです。道端で困っているようなひとを見かけて、手を差し伸べてみたりして、自分は『親切にした』と思っても、相手は本当のところは一人で頑張りたかったのかもしれないし、どうせ手助けしてくれるならもっとやって欲しかったという欲求の高いひとだったかもしれないし、そうなってくると『自分が思っている親切って、もしかしたら他人は親切だと思っていないんじゃないか』という疑念が生まれて、その定義とか解釈とか、そういったものを考えてしまうのかなあと思うのです。お前は俺ちゃう、と気づいてしまったその時から、自分と相手との距離が一気に離れてしまうように感じ、これまで共有できたと信じていた感情はもしかしたら自分の思い込みだったのかもしれないと疑心暗鬼になり、お前の『親切』と俺の『親切』って一緒の形してる?って、言いたくなるのかなあというのが、最近の自分がやたら言葉の定義とか解釈に思いを巡らせてしまうのかを考えた自己分析の結果です。

別に、その『親切』という言葉が自分と相手で全く同じである必要はないと思うんです。ただ相手の『親切』はどんな形をしているのか、どんな色どんな手触りそれは柔らかいのか固いのか小さいのか大きいのか・・・そんなことが分かっていればなんかちょっと、だいぶ違うんじゃないかなって思う。そんな風に思うのです。

 

本当は、『友達』っていう言葉の解釈、それについて書こうと思ったんですけど、なんか違う話で長くなってしまったのでまたつぎに書こうと思います。あーっと。そうそう、最近ベイマックス観たんですけど、友人の話では『観てよかった、たぶん思っているのとだいぶ違った印象の映画だと思う』という前評判で、そうなんだと思って観たんですけどやはり同じ印象でした、がぜん、ベイマックスが欲しくなりました。私は日々シュールな笑いを求めて生きているといっても過言ではないくらいシュールな場面が好きなんですけれど、ベイマックスは前半そういった笑える場面が多かったように思えて非常に高評価、なんていうのかな、緊迫した場面にロボットの無機質な声、っていうコントラストが絶妙なシュールさをかもしだしてたんじゃないかな、って思います。で、昨日くらいにスタバでベイマックスに似たふんいきを持つタンブラーがバレンタイン仕様で置いてあって、ベイマックスに合わせてデザインしたかどうかは分からないんですけど、ベイマックス欲しいけれど手に入らない、という方はこのタンブラーはどうかなと思います、私も、がぜん、欲しいです。

f:id:kireinasekai:20150116160501j:plain

スタバホームページより。なんかベイマックスっぽくないですか!

 

 

 

親切にするということ

 

しん-せつ【親切/深切】

1.相手の身になって、その人のために何かをすること。思いやりをもって人のためにつくすこと。また、そのさま。

2.(深切)心の底からすること。また、そのさま。

ーgoo辞書より抜粋

 

 親切、あるいは、親切にする、という言葉の意味についてここ最近考えるきっかけとなったのは、ある日の仕事の帰り道、渋滞の中トロトロと進む車を運転しているときのことだった。

その道は片側3車線の道路で、一番左側の車線は、その先の交差点で左折専用レーンとなる車線だった。帰宅ラッシュで道路は混んでいた。車は長い列を作り、ずいぶん前から先は見えず、車線変更も難しい状態になっていた。毎日通っているひとなら左折専用レーンに入らないように、前もって右側の2車線のどちらかに並んでおくことができる、実際その日も、一番左側のレーンは、右側の2車線に比べて幾分空いていた。私は真ん中のレーンの列に並び、進まない前の車のおしりの赤いランプをぼーっと見ていた。

交差点が近づいてくると、一番左側のレーンにいた一台の車が、慌てて車線変更をしようとしているのが見えた。おそらくこの道に不慣れな運転者で、その一番空いていたレーンが左折専用レーンになることを知らなかったのだろう。長い車の列に、交差点の手前で車線変更して入り込むことは難しい、チカチカと光るウインカーが焦っているように見えた。

あー、と思って眺めていたら、私の前の方にいた一台の車が止まって、その車を入れてあげた。私はその前の方の親切な車がスピードを緩めたため、ブレーキをかけた。親切な一台の車よりうしろにいた私の車をはじめ、ずっと後方に続いているこの列の車たちは、その一台の車を入れるために、一斉にブレーキを踏むことになった。もうずっと後ろの方にいる車は、なんでブレーキを踏んだのかよくわからないだろう。

 

バタフライ効果】(バタフライこうか、英:butterfly effect)

力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象。

バタフライ効果(butterfly effect)という表現は、気象学者のエドワード・ローレンツが1972年にアメリカ科学振興協会で行った講演のタイトル”Predictability:Does the Flap of a Butterfly's Wings in Brazil Set Off a Tornado in Texas?"(予測可能性:ブラジルで1匹の蝶がはばたくとテキサスで竜巻が起こるか?)に由来すると考えられている。

Wikipediaより抜粋

 

 

道をゆずったのは親切な一台の車だけれど、それ以降に並んでいた車たちの運転手は、その車と同じもしくはそれ以上の時間と労力を使った。確かにきっかけはその一台の車だったし、その車が親切心をみせなければ・・・・他の誰かが道をゆずったかもしれないし、もしかしたら可哀想な車はすごすごと左折せざるを得なかったかもしれないし、それは分からない。

 

親切にするということについて、それ以来、思い出したらときどき考えている。

グッドバイ・世界

グッドバイ世界から知ることもできない

不確かな未来へ舵を切る

 

グッドバイ世界には見ることもできない

不確かな果実の皮を剥く

 

 ーサカナクション『グッドバイ』

 

 

1月のある日、Facebookを開いたら、お知らせマークが点灯していた。誰かからのメッセージがあったか、誰かの誕生日だったか。いつものようにそれを開くと

『今日は●●の誕生日です。お祝いしましょう。』

その名前は、あの、自殺した友人の名前だった。

すとん、と、何か浅いところに心が不時着したように、ゴルフボールが、バンカーに落ちるようにすとん、と、頭が一瞬真っ白になった。

彼がいなくなった後も、どうやらFacebookは削除されていなかったらしい、残酷なまでにきっちりと、データは歳を刻んでいた、ご丁寧にそれを彼の友人みんなに報告してくれていた。もう歳を取らなくなってしまった現実の彼とは違って。着実に歳をとっていく私たちを置いて彼は遠くへ行ってしまった。いや、それは逆で、置いていっているのは私たちの方で、徐々に徐々に、私たちは彼から遠ざかっていくのだ、これから先、ずっと生きていく限り、ずっと。この距離は離れてゆく一方で、長い長い道の途中、幼く寂しそうな顔でずっと立ち止まったまま離れていく私たちをみつめている彼を想像してしまって、悲しくなった。まだそれほど時間は経っていないように感じるけれど、もう1年半、だ。成長していかない、変わっていくことのない、というのはこんなにも切ないことなのだと初めて知った。私たちは変わっていないようで、変わっていっているんだ、身体の成長、こころの変化、危うい関係性。

 

バンカーはさらさらの砂、もがいてももがいても出られない蟻地獄のような、さらさらの砂。

 『元気?』私はメールを送った。

 

ーーーー

4年前だったか、5年前だったか、今でも一番親しいと思っている親友から

『次の誕生日に死のうと思ってる。それが支えで、今は頑張れている。』

とメールが来たことがあった。

その頃は自分にも心の余裕がなく、金銭的にも余裕がなくて、遠く離れた彼女に会いにいくことができなかった。長文のメールを返信することしか出来なかった。彼女はとても繊細で脆い、複雑な生い立ちと彼女の才能があいまって、すごく大きな闇を背負っているような子だった。必然ともいうべき道をたどっていってしまっていて、たまに共通の友人から彼女に関する話を聞くことしかできなくて、私はやり切れない気持ちでいた。

なんで私は近くにいないんだろう。

かいつまんで話されたハイライトの情報では、彼女の心情を理解するのは困難だった。ただでさえ一緒にいたって相手の心なんてわからないのに、話を聞いただけで彼女の心を推し量るのは難しいことだった。ましてや彼女は弱音を吐かないし、いつだって強がっていて本当のことを言わない、人一倍寂しがり屋で誰かに理解されたがっていて、なのに自分の気持ちなんてわからせるもんか、そんな風に思えるくらい強気な子だった、今でもそうだけれど。

何があって、その考えに至ったのか、そのプロセスを知りたかった。助けの手を差し伸べるためには、情報が必要だった、彼女が求めている的確な答えはなんだろう。

 

結局、その後彼女は病院や(私の知らない誰か)に助けられて、どん底の時期を乗り越えて、今でも生きている。あの時有効と思えることが何も出来なかった私は、今でもそのことがしこりとして心に残っている。

Facebookでの誕生日事件があってから、彼女とのそんな想い出を思い出して、『元気?』と私は彼女にメールを送った。すぐに返信がきた、メールを見る限りの彼女は元気そうだった、そうだろう、つい先日会ったばかりなのだから知っている。

 

『あの時はそうするしかないと思ってたよ』

と彼女は自分が一番辛かった時のことを話してくれた。

『がんばるよ』

『どんなに死にたくても』

『ここまで生きてきたから』

『あの時ふんばった自分がかわいそうだなと思って。死んだら。』

私は自分のために、彼女には生きていてもらわないと困る、もう二度とあんな形で友人を失うのはごめんだから。だからよかった、少し安心した、過去の彼女が、今と未来の彼女を支えているようだった。まだ、彼女と私の時間は、たくさんあるようだ、まだ一緒に歩いて行ける、それって本当に、本当に、素晴らしいことなんだ。

 

自殺した友人は、生前、親に『自分には友達がいない』と常々言っていたらしい。

それを彼の実家にお線香をあげにいって、両親から聞いたとき、何とも悔しくてやり切れない気持ちになった、彼にはじめてバカヤロー!と叫びたくなった。友達だと思っていた私の気持ちは、どうやら一歩通行だったらしい。それ以来、まるで中学生の女の子同士のように、『私のこと友達って思ってくれている?』と聞く癖がついてしまった、バカみたいだと自分でも分かっている、そしてその返答として『友達だと思っているに決まっているじゃん』と笑って返されるそれが本当の気持ちじゃないかもしれないことだとも分かっている、それでも、発した言葉は事実として私の心に残る。そのための自己満足だ。

今思えば、バカヤローと叫びたかったのは、自分に向けてだったのかもしれない、そうだ、半分以上は、そんな気がしている。友達だと思っていたのに、何も出来なかった自分への怒りだった、私は友達失格だった、のかもしれない。友達だよね?うん友達だよ、というのはてっとり早く、そして最も愚かな友達の確認方法のひとつだろうな、とぼんやり思う。何をしたら友達なのか、どうしたら友達じゃないのか、よくわからないけれど、あまり深く考えてもいい事がないよ、友達だと言われて嫌に思う人はそういないから、と以前誰かに言われた言葉を、私はそれ以来頼りにしている。『トモダチ』は人を分類するときの識別記号で、たぶん基準は主観的で自分にあるだろうから、まあ、多めに使っても悪いことはないんじゃないかな、と思っている。

 

”完璧に分かり合える事なんて一生出来ない、って分かってたからサヨナラしたのかも”

 

私は彼女に、例の友人の一連の出来事について話していた。同時に、彼女が生きていることは私にとってとても大切で、重要な意味を持つのだと。

『最終的に、友達がいない、という気持ちが勝ってしまったのかもしれないけど、きっと、あかめのこと友達だと思ってた時間もあると思う』

『どっちかひとつの気持ちしかないなんてことはないんじゃないかな』

彼女は優しい。ひとの気持ちのグレーの部分を、曖昧に丁寧になぞってくれる。

ああ、そうだといいな。うん、ほんとうに、そうだったらいいなと思うよ。

例え物理的に近くにいなかったとしても、言葉だったり、想い出だったり、そんな目に見えないようなものでも、それは人に影響を与えることがある。そんなことは、多々、ある。私と彼女をつなぐ見えない糸は、長い距離をまたいでいるけれど、しっかりつながっているのが、今ははっきりと分かる、たまにぼやけて見えなくなるからその時には確認をする。そして、それはもう存在しないひととだってつながることの出来る、見えない糸であって、天国にいる彼とはもっと長い途方もない長い距離をまたいでいるけれど、きっとしっかりつながっている。彼はたまにその糸を引っ張っていたずらをするので、私は気づく、つながっていることを。

天国にいる彼は、今でも私を救ってくれている。私にも、私の周りをつなぐ糸にも影響を与えている。そういう形で一緒に歩いていこう。

 

 

どうだろう 僕にはみることができない

ありふれた幸せいくつあるだろう

 

どうだろう 僕らが知ることのできない

ありふれた別れもいくつあるだろう

 

グッドバイ 世界から何を歌うんだろう

グッドバイ 世界 世界 世界・・・

 

沖縄の風は、泡盛の香り

きょうもいい天気、ピシッと引き締まるような冷たい風、空を見上げれば冬の雲。意外とまだ暖かい11月。はあっと吐き出した息は、白く染まらない。『女の子は、ちょっとバカな方が可愛いですよ。わかりませ~ん、ってきゃぴきゃぴ言っておく方が得するんです。』女の子をなめているかのような言葉を思い出しながら、少し考える、そんな女の子にはなりたくはない、と。ぎゅーんと時間がワープする、パラパラパラと昔の映画のフィルムのように映像が逆回転、そう、あれは数日前のわたし、直ぐに答えられなかった質問に『あ、あはは、わかりません』の困った笑顔で答えたわたし、ぎゅーーんとさらに時間がワープして戻る、そんな女の子にはなりたくはない、と言うわたしは、少しその先へワープして、自分を正当化する為に意見を変えた。

最近こんなことがありました、とか報告するに値しないような出来事でわたしの毎日は出来上がっていて、それこそが本質なんじゃないかと思うけれど、そんなことは論じるに値しない、どちらでもかまわないのだ、キラキラとしているかけらなんですかそれは、ということが大事、と運転しながら通勤路を少し遠回りしながら思う、真っ直ぐ行ったのではセブンイレブンへ寄っていけないのだ、少し遠回りしなければ。セブンイレブンは最近少しいい感じ、店内に並んでいる商品はキラキラしたフィルターがかかって見える、つまりどれも魅力的で購買意欲をそそられる。

セブンイレブンでは700円の買い物をするごとにくじが1枚ひけるキャンペーンをやっていて、わたしは1500円くらいの買い物をしていたので、2枚ひける、と思いながらわくわくしてレジに並んでいた。前に並んでいた男の人は1枚引いて、カフェオレが当たっていた、あ、こんな商品がもらえるんだ。わくわくー。そうしてやってきたわたしの順番、がさごそがさごそしっかりかき回します、くじの箱のすみずみまで、はいこれーって引いたくじは、新発売のカロリミットドリンクと、ウコンの力でした、なんという忘年会仕様・・・女子力のかけらもなくってあんまりキラキラしてないと思った、セヴンイレヴン最高。

 

f:id:kireinasekai:20141125181207j:plain

沖縄は異国の地だった。現地のひと沖縄人は、喋り方がどことなく日本に長らく住んでいる外国人のような、独特のイントネーションをしていて、暖かいのに寒いさむいと言いながら長袖のスウェットを着て震えていた。わたしはその隣でノースリーブのワンピースを着ていて、ちんすこうにはラードが使われていることに感動していた。バターの代わりにラード、そこがクッキーとちんすこうの違いらしい。お酒といえば泡盛で、上司はこれって段ボールのにおいがする、とはしゃぎながら、カラコロと音を立てる氷の入った琉球グラスに注いだ泡盛(残波・黒、通称ザンクロ)を12回転半かき回して、12回転でもだめ、13回転でもだめなんだよ、と言いながら満足そうに飲み干した。わたしはどうしても匂いが気になって、あまりすすまなかったのだけれど、泡盛コーヒー割り、というものを頼んだのだけれどそれがびっくりするほど美味で、泡盛は割ると美味しく呑めるのだということに気づいてからは泡盛が好きになれた。あとハイビスカス酢で割ったものも美味しかった。あまり泡盛の味が分からない子なのだ。ラフテー

沖縄最後の日は、相変わらずのいい天気で暖かかった。青い空、白い雲、なまぬるい風、やや茶色がかったヤシの木のような南国植物、ガジュマルの木。那覇空港に向かうタクシーの運転手さんに、まだやや体内にアルコールが残っている、と感じながら、泡盛のことを話した。

割ると美味しいよね、うんうん、若い女の子はそう飲むのがいいよ、僕も昔はコーラで割ったよ、うん、飲みやすいよね、あとビールやワインで割ったりしてた、え?、そうそう、アルコールをアルコールで割るんだよ、おかしいでしょ、あとねー、奥さんが妊娠してた時は母乳で割って飲んだりしてた、なんか変なにおいがするーってみんなで笑いながらね、

途中までは相槌など打って笑いながら聞いていたのだけれど、母乳割りのくだりでなんとなく、ええー、と思ってしまった。ははあ、と微妙な笑いをふりしぼって、残っているお酒のせいにして目を閉じた。

 

f:id:kireinasekai:20141125181206j:plain

沖縄は暖かかったなあ、と名残惜しく感じていたのだけれど、本州も拍子抜けするほど暖かかった。けれど沖縄とは違う風が吹いている。まだ、息は白く染まらない。

もうすぐ11月も終わる。

産まれたばかりのひよこは、ピヨピヨ喚くことが仕事である

かれこれ1か月以上ブログを放置してしまっていた。

生存確認ブログすら更新しておらず、あかりクンから生きてる?ってTwitterもらって申し訳ない気持ちになった。

一度書かなくなるとなんとなく書き方を忘れてしまって、どんな気持ちでどんな風に書いていたのか、はてなが好きだったからこそなんとなく戻りづらい気持ちもあったりして、罪悪感のような、そんな気持ちもなかった訳ではないけれど、さっきこちらもしばらく放置していたTwitterを何気なくしてみたらソッコーでズイショさんから返信もらって、背中を押された感じがしたので、気の向くままに書いてみようかなあと思う。

 

f:id:kireinasekai:20140922183015j:plain

最近は、というと、変わりなく仕事をする毎日なのですけれど、最近は、というと、来年度の就職先の病院が決まったことと、それに伴って自分の専門とする科が決まったことが、ここ1か月のハイライトだったように思います。

 

就職先の病院が決まった、というのは、いわゆる一般的な就活のように思ってもらったらいいのですけど、試験のようなものがあって、病院によってペーパーテストがあったりするところもあるんですけど、わたしが受けた病院は面接試験だけがあるところでした。

研修医が面接試験で聞かれる質問というのは、ある程度テンプレートのような質問がいくつかあって、例えば、『なぜ医者を目指そうと思ったのか』だったり『初期研修を通して学んだことは?』だったり、そんなような質問はあらかじめ答えを考えておいたりします。

 

かれこれ2年前、わたしが初期研修で選んだ病院(つまり今の職場)の面接で、こんな質問をされました。

『医者、という職業はどんな職業だと思いますか?』

これはいわゆるテンプレートの質問の部類に入る質問なので、研修医であれば試験前に一度は考えたことのある問題なのではないかなと思います。とは言っても、かなり広い質問で、どんな風にも答えられるような質問であり、答えもどう捉えるかは受け取った人次第といった柔軟性のある質問ですよね。

考えていたとはいえ、すぐに答えのでる問題ではなく、改めて1か月くらいは考えたと思います。もっと言えば、もうずっと、物心ついたころから漠然と考えていて、その時その時の歳を経た自分に応じて答えが変わっていた質問だったように思います。

 

24歳、わたしが6年間の学生生活を経て出した答えは、

『医者は裏方の仕事である』

というものでした。その時のメモには、『医者は裏方の仕事である。患者さんが人生という表舞台から、やむを得ず降りなくてはならなくなって、やって来る場所が病院である。なので病院は舞台裏であり、そこで働く医者は、裏方である。』と書いてあります。

まあ、こんな答えは臨床経験のない若造が考えた答えであって、実際の面接でこのように答えたら、試験官の先生には『現場では医者が指揮をとらないといけないから、堂々としていないといけないよ』と言われました。おそらく先生は、医者がリーダーとして指示を出さないといけない現場での『裏方』をイメージされたのでしょう。

 

ふーん、まあ、そうかあ、と思ったりしていて、2年弱、現場で働いてみて、わたしがやっぱり思うのは、医者は裏方だという気持ちは忘れてはいけないな、ということでした。

指揮をとるな、とか、目立つな、という訳ではありません。

ただ、病院の目的ってなんだろうな、ということです。医者の目的ってなんだろうな、ということです。

常連様のようによくいらっしゃるご老人の方が外来にいらっしゃって、もっぱら外出するのは病院の受診日だけ、と話されているのを聞くと、なんとなく不健康に感じてしまうのです。そのような方々が集まって、待合室で世間話に花を咲かせているのをみると、なんとなく、違うよなあ、と思ってしまうのです。もちろん、ずっとおうちに引きこもるよりは、定期的に病院にでも来て誰かとお話する方がいいのでしょうけど、それはそれこそデイサービスや公園や、それ専用の場所でして頂くのがいいのであって、病院は舞台裏であって欲しいなあと思うのです。

もちろん、何らかの理由でずっと入院を余儀なくされている患者さんなどもいらっしゃるので、一概には言えないんですけど。自分の足で外を歩いて、自分の手で明日をつくってゆける人には、病院は舞台裏であって欲しいと思います。それが一人で出来ない患者さんには、もうひとつの手や足を与えたい。そして医者は、患者さんが表舞台で活躍できるように、デザイナーやメイクアップアーティストのように患者さんを輝かせることのできる、寡黙な職人のような裏方の存在であったらいいなあと思うのです。

 

甘い考えなんでしょうか、理想論なんでしょうか。まだ現場の裏の裏がみえていないひよっこの考えなんでしょうか。

 

これから先も、きっと節目ふしめで、考えてゆくことになるんでしょう。その時にはきっと今とは違った考えになっているだろうし、だからこそ何度も自分に問うていきたい。そんな風に思う、めっきり冬の空気になってきたここ最近、わたしは、そんな感じで過ごしています。

 

 

 

わたしの大切なf(x)

あなたのかけらをください

形のある物を

想い出だけで生きてゆくなんて

まだ出来そうにない

 

―『あなたのかけら』 華原朋美

 

地球、いや、宇宙は、どうやって生まれたのだろうか。

私たちの周りには形のあるものが溢れている。それらのものは細かく細かくしてゆくといずれ原子の集合体になるのだけれど、その原子は何から生まれたのだろうか。

何かを作る時には必ず材料が必要であるはずなのに、宇宙はどうやって生まれたのだろう。0から1を生み出すことがなぜ出来たのだろう。そんなことを考えているといつも思考が停止するので、創造主が『これ以上考えてはいけないのだよ』と私の思考を止めているように感じる。STAFF ONLYの領域に踏み込むことはできない。今現在の人類の知識で宇宙の誕生を説明することは可能なのだろうか。仮に出来たとしても、その説明は私が聞いても理解できないSTAFF ONLYの世界なのだろうけど。

 

私にも、誰にでも、『自分の意思』というものがあって、たとえば人はAという物事が起きた時にBという行動を起こす、その『自分の意思』はf(x)のような働きをしていて、人の行動はB=f(A)となる。この私たちのf(x)は、ひとりひとり持っている唯一無二のもので、今日の晩御飯にラーメンを食べることを選ぶという行動ひとつとっても、それはおなかのすき具合、昨日の晩御飯、自分の金銭状況、最近聞いた評判、もうあらゆるファクターをf(x)に放り込んだら、カタカタカタ、チーン、と『今日はラーメン食べよう』という答えがはじき出されているはずなのだ。

 

私たちの行動は、反射的行動を除外して、すべてそれぞれの持つf(x)から導きされた答えであるはずだ。この、大事なf(x)、私がこれまで自分の頭の中で育ててきたf(x)は、0から自分が生み出したものかと言われるとそんなことはなくって、私の行動は、私の意思によって起こされるものなのだけれど、その意思を決定するf(x)は、私以外の人の『かけら』がたくさん埋め込まれている数式なのだ。

 

私はつい人の真似をしてしまう、それは好きな人の行動を無意識に真似してしまうという『ミラーリング』と同じような気持ちだと思うのだけれど、この人いいな、と思った人の行動であったり口癖であったりを、意識的に真似してしまう。露骨にやりすぎると真似された相手は不快に思うだろうので、出来るだけこっそり真似するようにしている。

いいなと思う人はいつもすぐ傍で感じていたい、それならばその人のかけらを私の中に埋め込んでしまおう。

 

私の大好きな初めてのオーベンは、カルテに『粛々と検査を.』と書くのが癖だった。あと、『句読点の理系スタイル(,や.を使うスタイル)』(id:islandkさま、B※ありがとうございます)はオーベンのスタイルだった。私は、粛々と検査することをモットーとし、理系スタイルでカルテを書くようになった。

 

私の大好きな神経内科オーベンは、外来で必ず立って患者さんを迎え入れ、患者さんが椅子に座るまで自分は椅子に座らなかった。私は自分が外来をするときには、患者さんを立って迎え入れ、患者さんが椅子に座るまで待つことにした。

 

何か小さなことでも、その人の行動の癖や、いつも飲んでいる飲み物や食べ物、そんなものを私はこっそり自分のf(x)に組み込んで、なにか選択をするときにその人を思い出し、ひそかに嬉しくなったりしている。もはや思い出すことのないくらい自分のものとなってしまったかけらもある。ブログなんかではつい好きなブロガーさんの書き方を真似してしまう。(あまり大きい声でいうとストーカーチック、これはある一人の人に対してやっている行動ではないですので、どうぞご理解を泣)

 

これまで色々な出会いと別れがあった、たとえ離れて直ぐに会えなくなっても、f(x)にかけらがあるから少しだけ傍に感じられる。私は寂しがりやで人に流されやすい性格なので、私のf(x)は色々な人のかけらだらけになってしまっているけれど、まあそれでも唯一無二なのでそれでいいやと思っている。たまに自分がない、とか、自分で決められない、とか悩むこともあるけれど、程度の差こそあれf(x)はみんな誰かのかけらが埋め込まれている代物なんだと思う。

東京はすごく不思議なところだ。私のf(x)に埋め込まれているかけらのオリジナルを持つ人はたいてい東京にいる。ブロガーさんも東京在住の方が多いように思う。

 

あなたの大切なf(x)は、誰のかけらが?

 

 

最近少し忙しいです(´;ω;`)生存確認はこちらでできます!!